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錦部郷(古代〜中世)


奈良期~鎌倉期に見える郷名河内国錦部郡のうち錦織・錦郷とも書き,戦国期には錦郡と記されている「日本書紀」仁徳天皇41年条に,百済の王の族である酒君が「石川錦織首許呂斯」の家に逃げ匿れたとある天平3年7月5日のものと伝えられる(延暦年間頃とする説もある)住吉大社司解にも,「山預石川錦織許呂志奉仕山名所所在,号曰兄山天野,横山錦織,石川葛城,音穂高向,華林二上山等」と見える(住吉大社神代記/平遺補1)また,「日本書紀」欽明天皇31年条に,高麗の使の守護の1人として「錦部首大石」が見え,同じく天武天皇10年条に「錦織造小分」など14人に連を賜うとある当地には,古くより,渡来人系氏族である錦織氏・錦部氏が居住していたと考えられるなお,「新撰姓氏録」河内国諸蕃に「錦部連 三善宿禰同祖,百済国速古大王之後也」と見える元慶7年9月15日の河内国観心寺縁起資財帳に「錦部郡錦部郷高向村」とある(観心寺文書/平遺174)「高向地壱町伍段,家地七段,林五段,栗林三段」が観心寺領となっており,この四至に「北限道并錦部寺栗林」とある下って,建久9年7月15日の僧慶円田地充文によると「錦部天野谷」にある田地2反が塔の修理および守護料として施入されている(金剛寺文書/大日古)下って,天文6年10月27日の八尾福智院分納帳に「にしこをり弥太郎」,同7年9月28日の八尾福智院分内撿帳,同年10月18日の八尾福智院分納帳にも「〈錦郡〉与四郎」が見えるが,当郷との関係は不詳(観心寺文書/大日古)現在の河内長野市の高向・日野・滝畑・天野町付近と推定され,江戸期の錦部村(現富田林市錦織)付近とも考えられるが,詳細は不明

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7385256