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博労町(近世〜近代)


江戸期~現在の町名大正4年から1~2丁目,昭和10年からは1~4丁目がある江戸期は米子城下十八町の1町馬喰とも書く城下の北東端に位置する城下東部を南北に走る山陰道に沿って南北に伸びる町人地南は糀町と接する米子町の東の出入口にあたる交通の起点町名の由来は,博労たちが集住していたことにちなむ文化元年の下札では生高22石余,物成米は13石余幕末期の惣間数は164間5分5厘,安政6年の調査では106間,ほかに糀町境東小路27間・新借屋通り45間,市政所御備銀198匁元禄8年の竈数は家持63軒・借家18軒明治2年には表竈68軒・裏竈72軒,人高536人(米子市史)明治初年の戸数168・人口582(県戸口帳)安政6年の絵図には一里松の記載がある馬の定期市が4月13~15日,5月1~3日,9月5~7日,9月22~25日にたった安政7年東の車尾【くずも】村より市日が重複しないよう変更の願いが出ている(県史12)当町に鎮座する勝田神社は慶長年間中村氏時代に外江村にあった勝田明神を移したものといわれる最初少し東方の勝田山にあったが,次の加藤氏の時現在地へ移された池田光仲の時に社領7石5斗寄進し,以後歴代藩主の信仰が篤かった米子近郷の総産土神で,社地は東西28間・南北68間,社は縦2間・横3間,祭日は3月15日・9月15日(伯耆志)現在4月15日・10月15日に祭礼が行われ,にぎわう天保6年・明治38年に焼失し,現在の社殿は昭和49年に完成勝田神社の東にある曹洞宗要津山法城寺は明和年間の創建入口に樹齢およそ400年の連理根上り松(国天然記念物)があったが,マツクイムシの害で枯れ,昭和44年指定解除山門入口に小説「相寄る魂」で知られる詩人生田春月の墓碑,境内には2.26事件の西田税の墓もあるまた,この寺の井戸水は,昔から名水として珍重された西隣りの黄檗宗祥光山了春寺はもとは内町の中海沿いにあったもの米子の城代荒尾氏の菩提寺としてよく知られ,重臣村河氏・日置氏などの墓もある宝暦6年5月4日博労町居風呂屋孫右衛門方より出火し,当町119軒,糀町80軒が焼失(御国御目付日記)明治6年発蒙小学校が開校,同7年の教員数は男4・女1,生徒数は男144・女36(県史近代5)同18年明道小学校が東町に移転した際,これに合併した同21年の戸数は農業51戸・商業111戸・雑業55戸の計217戸,地方税83円余・町村費140円余・申合わせ費45円余を納める(米子市史)同22年米子町,昭和2年からは米子市に所属明治35年米子駅・後藤駅の開設により,当町の交通上の機能は衰退した大正4年博労町1~2丁目となる同11年県立工業学校創立(昭和9年米子工業学校と改称)当時は周囲一面の桑園だった昭和4年博労町郵便局開設同10年2丁目・栄町の各一部が3丁目,勝田町・栄町の各一部が4丁目となり,1丁目の一部が糀町2丁目・富士見町1丁目,2丁目の一部が東山町となる同13年4丁目に中央気象台米子支台設置(米子測候所の前身)同27年国鉄境線博労町駅開設同32年4丁目に啓成小学校が移転新築世帯数・人口は,大正12年408・1,615,昭和30年777・3,227,同40年985・3,408,同50年940・2,804

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7409423