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フランス革命がもたらした「国民国家」


◎国王を処刑してヨーロッパ全体を敵に!

 1791年、ジロンド派内閣が革命に対して干渉の構えをみせるオーストリアに宣戦すると、革命は一部に対外戦争を組み込むことになった。対外危機が迫るなかで、祖国を守るための義勇軍が各地からパリに参集する。今日のフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」が生まれたのは、この時のことである。

 義勇兵が集まったパリでは民衆が過激化し、1792年にテュイルリー宮に乱入して国王を拘束し、王権を停止。9月に共和政宣言を出して「自由の女神」を新たな象徴とし、普通選挙による「国民公会」を成立させた。

 国民公会は、ルイ16世の処罰を巡って激しい討論と3度に及ぶ投票をくりかえしたが、1793年1月、ルイ16世はギロチンにより公開処刑された。だが、それに対してイギリスを中心とする「対仏大同盟」が結成され、フランスはヨーロッパ全体を敵にまわすことになる。

◎革命は急進化し恐怖政治が始まった

 1793年春に内外の危機が深まると、ロベスピエールに率いられた急進的なジャコバン派は、危機への対応を名目に次々と戦時政策を打ち出し、独裁体制を固めた。

 そして、旧貴族が反革命陰謀を企てているとの疑念、食料の強制徴収に対する農民の抵抗、非カトリック化などの「文化革命」に対する反発が、内外の危機と結びつくと、反革命を鎮圧するとの口実により大規模な残虐行為が重ねられることになった。

 1793年から94年にかけて中央、地方で約50万人が反革命の容疑で投獄され、王妃マリー・アントワネットなど3万5000人以上が処刑された(恐怖政治)。

◎まったくの新しい枠組みを試みるが…

 革命の急進期に進められた「文化革命」は、非カトリック化と理性にもとづく新文化の創造をめざして時間、空間、生活習慣などの再構築を行なうものだった。

 キリスト教と結びついたグレゴリー暦が廃止されて、10進法にもとづく革命暦(1週間が10日、1月が30日、月の名も自然の循環を表す)が導入され、各地の地名も変更された。現在、世界中に普及している10進法による長さ、重さの基準(メートル法)も、この時期に定められた。しかし、建前を現実に置き換えることはやはりむずかしく、伝統をすべて否定することはできなかった。

◎恐怖政治の終焉「テルミドールの反動」

 ジャコバン派は、暴力を背景にして国家権力の再編をはかったが、それは民衆の間に大きな不満を引き起こした。とくに、その経済の統制政策は危機を解消できないばかりか、かえって悪化させることになった。

 1794年になると国内の危機が去り、対外的にもフランス軍が攻撃に転じた。そうしたなかで、ロベスピエールの暗殺未遂事件をきっかけに恐怖政治がさらに強化されると、独裁に反対する動きが強まり、7月にパリ市庁舎に立てこもったロベスピエール派が反対派に深夜襲撃される。ここでロベスピエールが逮捕、処刑され、ジャコバン派は一掃された。これを「テルミドール(革命暦の熱月)の反動」という。1795年10月には、再度穏健な憲法(95年憲法)が制定され、5人の総裁からなる「総裁政府」が成立し、フランス革命は終結した。

◎最初の「国民国家」の出現

 従来フランス革命は、身分制社会を覆して自由・平等・博愛を基本原理とする市民社会を出現させたことに意義があると考えられてきた。しかし、それはあまりにも抽象的、理想主義的なフランス革命観だ。フランス革命の意義は、「絶対主義国家」が崩れ、議会が主権をもつ「国民国家」が成立したことにある。

 国民主権の理念にもとづいて、議会が定めた法律は、王政の時代よりも強い拘束力をもった。単一の法体系と政治システム、地方行政の画一化、固有の領土の確定、言語や度量衡の統一などからなる、最初の「国民国家」がフランスに出現したのである。

 国民に対して徴兵権、課税権をもつ「国民国家」の優位性が、ナポレオンの軍事行動によって具体的に示されると、ヨーロッパ各国はフランスにならって次々と「国民国家」に移行していく。




日本実業出版社
「早わかり世界史」
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