蕗野保(中世)


平安期~室町期に見える保名越前国足羽北【あすわきた】郡のうち荘名でも見える安元2年2月の八条院領目録には安楽寿院領のうちとして「越前国小山 西谷 蔬野」と見える(高山寺文書)「経俊卿記」によると文応元年9月23日条に「法勝寺条々」として「越前国蕗野保事」とあり,当保について後嵯峨院庭中に訴訟があったことが知られる当保は法勝寺への灌頂料などを負担していたものであろうか詳細は未詳嘉元4年6月12日の昭慶門院所領目録には「蕗野庄」が安楽寿院末寺の興善院領荘園の1つとして見え,同じ蕗野にあったため蕗野寺とも称された竜花寺も安楽寿院領となっており,ともに八条院領荘園に属していた(竹内文平氏所蔵文書)保を領家として知行する者は不明であるが,竜花寺(蕗野寺)については宰相局が20貫文分の年貢を負担し,それは禅師王の給分とされている嘉暦3年11月8日の勧修寺定資の所領処分状案では,「越前国蕗野保,〈件地宰相局一期後可知行之〉」とあり(京大御遺言条々),宰相局の没後は勧修寺定資の子の坊城俊実の知行とされており,鎌倉末期には領家として勧修寺家・坊城家が知行している(勧修寺家文書/鎌遺24841)また安楽寿院領竜花寺(蕗野寺)と興善院領蕗野保の区別も失われていったと考えられる南北朝期の暦応2年9月15日には浅宇津を攻撃した北朝方に対し,南朝方が蕗野寺城と二岡城から反撃を加えたため,北朝方の得江頼員らは蕗野寺城のふもとを焼き払ったとある(尊経閣文庫所蔵文書)蕗野寺城は,現在の福井市冬野町の北にある城山付近と推定されるまた蕗野寺の光範は文安2年8月7日に丹生郡方山真光寺の僧とともに東寺修造料20疋を奉加している(京府東寺百合文書)蕗野保は永享9年の妙観諸役免許状写(専念寺文書)には「鹿苑院領越前国蕗野保中野念仏道場」とあり,文安3年4月にも相国寺僧瑞渓周鳳の日記「臥雲日件録抜尤」にも見えることから,鹿苑院領であった時期もあったと考えられる他方,安楽寿院領として坊城氏の支配も続いていたが,長禄4年閏9月の山城国梅津にある臨済宗寺院長福寺の塔頭である蔵竜院の申状によると,安楽寿院領蕗野保は蔵竜院の由緒の地であり,そのため坊城家と争いになったが,結局和与して買得相伝することとなったので,勅裁によって寺領として安堵されたいと願っている(東山御文庫記録)文明3年に蔵竜院は近江国坂本の泉蔵坊より273貫300文の銭を借り,蕗野保の年貢を質物として入れていたが,文明19年5月4日に泉蔵坊は本銭273貫300文を蔵竜院に寄進し,保を返還している(国会冑山文庫文書)なお丹生郡殿下村国山に伝わった鰐口には「越前国蕗野保惣社貴賤大明神鐘,応永七年六月二十日,大願主敬白」の銘がある(県史蹟勝地調査報告/大日料7‐4)当保は現在の福井市中野町・冬野町付近に比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7333768 |