東屋荘(古代)


平安期に見える荘園名那賀郡のうち承徳2年8月15日の栄山寺別当実経置文(栄山寺文書/平遺1397)に「一,所領庄薗事……紀伊国東屋庄等也」とあるのが初見当荘は「寺家根本庄」であったが,康平年間「或成権門所領,或国司被収公」という状況にあった山階寺僧喜範は別当実昭と相談して当荘の公験などを預かり,「寺家氏人」で「喜範親昵」であった紀伊守藤原重経を利用して,「私領渋田公田廿町」をもって立荘,10町は寺家諸役を勤仕し,10町は喜範の所領としたところが延久年間の紀伊守藤原師仲は,「東屋庄」がありながらなぜ「渋田公田」をもって立荘するのかと異議を主張しているまた喜範は上述の公験等を返さず,ともすれば「西金堂庄」として立荘しようともしていたという下って保元3年8月7日の官宣旨(同前2941)には「応如旧令栄山寺領掌東屋庄事」とあり,当荘は栄山寺領として認められているそして平治元年5月日の紀伊国司庁宣(陽明文庫所蔵文書/平遺5034)で施行されているこの国司庁宣には「栄山寺領那賀郡名手郷長田上・同下・神前参箇村字東屋庄」とあり,このうち「長田上・同下」両村は室町期以降長田荘とも称された随心院領井上本荘にあたり,現在の粉河【こかわ】町北長田・長田中付近と考えられ,また「神前村」は室町期以降志野荘とも称された随心院領井上新荘に相当し,現在の粉河町北志野・南志野付近に比定される永暦元年10月20日の大和国栄山寺文書奉納状(栄山寺文書/同前3112)には「東屋庄公験一巻〈天元三年官符,保元(三脱カ)年宣旨,平治元年国判〉」と見える荘域は粉河町西部の紀ノ川右岸に比定されるなお荘名は粉河町北志野の東屋御前神社(志野神社)として残っているが,鎌倉期以降は井上本荘・同新荘と称されたと考えられる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7403113 |