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八幡町②
【はちまんちょう】


旧国名:伊勢

(近世~近代)江戸期~現在の町名。明治前期は四日市を冠称することもあった。八万町とも書く。古くは八幡世古・八幡瀬古とも称した。江戸期は四日市町の1町。四日市町の中央部に位置し,中町から三滝川へ向かう路地にあたる。地名の由来は,この路地の東側に八幡宮があったことにちなむ。三滝川氾濫原を開拓してできた地で,寛永年間には当町の名が見える(昭和5年版四日市市史)。北端は三滝川に沿い,細い板橋が架けられていて,対岸の松下町に続いていた。四日市陣屋に近いところから江戸期は牢屋も置かれていた。文化7年の四日市町の改革では,中町・四ツ谷・七幡町・中新町とともに中町組に加わり,3人の町代役を出した。地名の由来になった八幡宮は応永年間に浜田城主田原家4代の香華所となった北町の建福寺東隣に同寺の鎮守として勧請したもの(建福寺旧記)。寛文年間の棟札に「八幡大菩薩再興」と見える。享保9年と享和元年の諸色明細帳に社地180坪とある。近くには建福寺末寺の三滝山信光寺があったが,嘉永7年の地震で倒壊した。この地震の時,当町では全壊15戸・半壊13戸・死者4人を出し,また三滝川の堤防も地割れを起こしている。明治21年の戸数84・人口415(同前)。同22年四日市町,同30年四日市市に所属。町制施行にともなう町会議員の選出区は同和会に属し,明治23年の四日市消防組でも中町・境町・中新町・四ツ谷新町・南新町とともに第3番組を組織している。同24年には三滝川を渡す慈善橋も架けられ,明治37年夏から同42年には当町東部から北条町にかけて約4万坪の水田が埋め立てられ市街化されて,明治45年江戸期からの地は西八幡町,新しい造成地を東八幡町と通称した。西八幡町は大正10年になると通称中八幡町を分離した。大正14年には東中町から東八幡町に至る道路が開設され魚の棚線と呼ばれた。明治43年の戸数408・人口1,477。昭和20年の空襲のため全町が焼失し,第2次大戦後の戦災都市復興の事業で第二工区として工事が進められ,八幡世古は70m幅の幹線道路に変わった。同33年の卸売店数2・小売店数14。同34年の世帯数274・人口1,149(東八幡町144・611,西八幡町74・313,中八幡町56・225)。同38年まで土地公称四日市の一部で公称町名であったが,同年住居表示を実施し,四日市(土地公称)の一部で当町・浜町の各一部にあたる地域をもって新たに八幡町とした。同時に一部が北町・中町・北条町となる。同50年の世帯数235・人口808。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7128693