川崎
【かわさき】

旧国名:下野
(中世)戦国期に見える地名。塩谷郡のうち。永禄9年10月23日の佐竹義重官途状写に「今般塩谷・川崎之地動,神妙候,依之官途之事相意候」と見え,佐竹義重は松平弾正少弼に対し当地と塩谷における戦功を賞し,官途を与えることを約束している(家蔵文書/県史中世3)。次いで,天正13年と推定される卯月朔日の白河義親書状写によれば,同年3月当地を那須氏が攻撃したことが知られる(小田部庄右衛門氏所蔵文書/県史中世2)。当地の川崎城は塩谷氏の有力な支城の1つで,このためたびたび那須氏の攻撃を受けた。戦国期と推定される年未詳6月朔日の宇都宮広綱書状写によれば,塩谷長門守が当地の衆とともに那須氏へ攻撃を行っており(小田部庄右衛門氏所蔵文書/県史中世2),また年未詳臘(12)月28日の書状で足利義氏は那須資胤に,当地への攻撃を中止するよう申渡している(那須文書/県史中世2)。下って,天正18年と推定される年月日未詳の関東八州諸城覚書には,川崎城が宇都宮友綱(国綱か)の支城として記されている(毛利家文書/県史中世4)。江戸期には「慶安郷帳」に川崎村と見えるが,「元禄郷帳」以後の郷帳類には川崎反町村と見え,江戸初期には川崎反町村と称するようになったと考えられる。なお,一説にははじめ川崎村・楚理町村の2か村であったが,会津中街道が成立した元禄8年頃に合併したともいう。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7041497 |





