鍛冶町?(近世〜近代)


江戸期~現在の町名明治初年~明治22年は弘前を冠称江戸期は弘前城下の1町町人地城郭の南東に位置し,桶屋町と親方町を結ぶ南北の道筋の町西に本町,東に新鍛冶町が並行する町名の由来は,町内に鍛冶職人が多く居住したことにちなむという(国誌)正保3年の津軽弘前城之絵図に町屋として町割りされている慶安2年の弘前古御絵図では「新かち町」と見え,鍛冶27軒・桶屋1軒・扇屋1軒があるが,この町名は当時本町が鍛冶町と称されていたことに対すると考えられる寛文13年の弘前中惣屋敷絵図には下鍛冶町として町屋28軒,延宝6年の弘前町方屋敷割には「シタカチ丁」と見え,町屋27軒と武家屋敷1軒があるなお,下鍛冶町の名称は,宝永2年の城下町割りによってそれまで長鍛冶町・横鍛冶町と呼ばれていた本町ができるまで続いたという弘前町方屋敷割裏書記録によれば,正徳年間には町内38軒が町役を負担している延享元年の大火で当町も羅災しているが(平山日記),復興後の宝暦6年の鍛冶町支配町屋鋪改大帳には町屋40軒とある寛政5年には町内の鋳物師に銃器鋳方が命じられている(津軽歴代記類)天宝8年の弘前絵図では町屋40軒がある明治初年の「国誌」によれば,戸数88,町域は「上は親方町から下桶屋町に至る,長一丁四十四間五尺,幅上にて五間三尺下は五間一尺」とあり,町の状況については「町中に小橋あり,当町鍛冶職の他桶屋多し」と見える明治22年弘前市に所属以後当町は職人町および商店街として発展したが,近隣の吉野町に昭和27年に弘前電気鉄道(現弘南鉄道)が開通し,中央弘前駅が設置されると,隣接の新鍛冶町・桶屋町などを含めて当町は弘前の娯楽街となった付近一帯の通称有楽街は,映画館・バー・キャバレー・飲食店・喫茶店が林立した昭和3年の賦課戸数58.世帯数・人口は,昭和25年84・378,同50年51・160,同55年40・116.

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7250552 |


