八木宿村(近世)


江戸期~明治7年の村名梁田郡のうち例幣使街道八木宿を形成寛文年間上野館林藩領,天和2年からは旗本能勢氏知行村高は,「慶安郷帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに27石余「改革組合村」では八木と見え簗田・八木宿組合寄場に属す脇街道である例幣使街道の宿場として,隣の梁田宿と合わせて1宿の扱いであった宿内の長さは東西6町程,宿高は27石余で,地子免許はなかった各宿までの里程は倉賀野宿へ11里32町,太田宿へ2里10町,梁田宿へ30町,天明宿へ3里12町,加宿は南友之郷(加宿高210石)で,加宿ともの天保14年の宿内人別542・家数96,本陣は宿内の上宿に1軒,旅籠屋は19軒宿建人馬は梁田宿とともに25人・25疋で,人馬継問屋が上宿に3か所あり,問屋代わり年寄が3人いた問屋給米はなかったが,問屋役のものには米1俵が領主から手当として支給された正徳元年に定められた駄賃・人足賃銭は,天明宿へは荷物1駄127文・乗掛荷人共127文・軽尻馬1疋83文・人足1人16文,太田宿へは荷物1駄75文・乗掛荷人共75文・軽尻馬1疋50文・人足1人37文であった市は先年は毎月3回立っていたが,幕末には12月24日の1度であった米の津出しは30町離れた猿田【やえんだ】河岸を利用した同宿では,農間に旅籠屋(八木・梁田両宿には飯盛女が多かった)を営む者,食物を商う小商人がいたが,主たる生業としては男は縄をない莚を織り,女は機を織った(例幣使道宿村大概帳)昭和3年の「例幣使街道八木・梁田両宿助郷帳」よれば,助郷村36か村・助郷高計1万183石余であった天保年間の家数83(改革組合村)慶応3年「足利組織屋連名帳」では,南郷機屋組(29か村)に所属する織屋が1軒(根元庄次郎)見える(近代足利市史)同年の「酒造林高改帳」によれば,梁田・八木両宿組合に所属する2名の酒造家(藤兵衛10石・佐平130石)が見える神社は母衣羽之社(現母衣輪神社)と牛頭天王社があり,のち母衣輪神社に合祀された寺院は浄土宗竜善寺用水は天水(潅漑面積田4反19歩)を利用する(館林領五郡農家水配鑑)名主は享保年間に三郎兵衛・重右衛門,弘化年間に安右衛門が勤めた(近代足利市史)民謡「八木節」の淵源は八木宿の遊女が,時の無聊に,あるいは望郷の折に唄った哀調が,明治期に堀込村の堀込源太によって整調されたものである明治4年栃木県に所属同7年福居町の一部となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7281018 |