伊草郷(中世)


南北朝期~戦国期に見える郷名井草郷とも書く県中央部,越辺【おつぺ】川の自然堤防とその後背地に位置する比企【ひき】郡のうち越生【おごせ】町「法(報)恩寺年譜録」に「応安元年戊甲七月,越生兵庫助以田畠寄附焉,武蔵国比企郡……同郡土袋郷内伊草村」とある承久の乱の際の北条泰時率いる18騎の先発隊を注した「吾妻鏡」承久3年5月22日条の交名中に見える伊具太郎盛重は伊草姓で,この地の在地領主・御家人であるという(旧県史)室町期の成立という市場之祭文には,「武州伊草市祭成之」と見える(文明12年か)11月18日の太田道灌書状写には,扇谷上杉定正が上野【こうずけ】(群馬県)にいた顕定の許に向かうために,文明10年7月上旬頃に武相両国の扇谷上杉勢を率いて河越を出発し,「井草与申所ニ着陣」と見える永禄年間前後は,東武蔵は小田原北条氏と岩付【いわつき】太田氏・上杉謙信の勢力との競合地であった「役帳」には河越衆大道寺弥三郎の所領として,「卅七貫文 入西郡 井草之内」と記されている永禄6年閏12月5日の岩槻【いわつき】よりの牛村助十郎宛ての恒岡信家・佐枝資宗連署状では,水害の多い井草郷の堤防構築が命じられ,翌7年10月15日の太田氏資印判状では,百姓の帰村と10年間の免税が命じられている元亀元年正月11日の行憲判物には,前年の永禄12年に井草郷が納めた諸役は,「八貫五百文 代物,兵粮,其外諸色納,弐貫文 田口御給分ニ引之,右之所納請取日記と引合,辰之歳御検地之辻,拾貫五百文之通り,田口外記為取続,皆済之所実正也」とあり,永禄11年には井草郷の検地が行われている元亀元年12月28日の行憲判物には,同年の井草郷の納所分が「五貫文 代物にて納,仁貫四百七十文 大豆麦にて納,五貫文 田口外記御給分ニ引之」と記されている天正10年3月29日の井草郷名主牛村助十郎宛ての恒岡信家・佐枝資宗連署状では,細谷三河守知行の井草郷名主屋敷半分の宛行いと田地開発の督励が命じられており,同13年2月24日の井草百姓中宛ての細谷資満条目では,田畠開発について百姓衆が違乱しないように,木草以下については従来の用益権を承認し,非分が行われた場合には領主細谷資満に書付を提出するようにと定められている元亀2年12月24日の守賀某他二名連署請取状によると,当時の井草の家数は15軒で,1軒100文宛,計1貫500文の棟別銭が宛課徴収されている天正11年7月28日の太田氏房印判状では,井草百姓中に対して8月20日までに棟別銭1貫500文を佐枝・恒岡両人に渡すべきこと,日限を越えた場合には分国法で定めた追徴金を付加することが命じられている同17年7月20日の氏房印判状でも,井草伊達分百姓中に対して9月晦日を期限に棟別銭2貫37文が宛課されている天正18年2月11日の一徳斎他二名連署請取状には,前年分の年貢未進分574文が永楽銭で徴納されたことが記されているまた郷役としての大普請人足5人が,天正8年7月2日の井草郷領主細谷刑部左衛門・百姓中宛ての北条家印判状では,荒川堰修復のために徴集されている同12年2月8日の井草領主細谷三河守分の百姓中宛ての太田氏房印判状では,箕田【みた】郷(現鴻巣【こうのす】市)の荒川堤修復のために徴集され,1日遅参の場合には分国法によって5日間召仕すべしと命じられている同14年2月6日の太田氏房印判状では,井草細谷分に岩槻城修復のための大普請人足5人が徴集され,「来十一日ニ鍬・簀子持,岩付ヘ相集,普請可致之,若一日一人之不参付而者,如御法為過失五人宛,可被召仕者也」とある同年6月23日の北条家印判状でも,関宿【せきやど】城(千葉県)の破損修復の大普請人足3人が徴集され,同15年3月19日の太田氏房印判状では,岩槻城への修復用木材運搬のための人足5人が徴集され,同年10月28日の氏房印判状でも,岩槻城諸曲輪の塀破損修復のための郷役が井草伊達分百姓中に宛課徴集されている同16年正月6日の氏房印判状でも,岩槻城整備のための人足3人が井草本郷の「下いくさひき分 かくせん(角泉)立川分」から徴集されている(牛村文書/武文)現在の川島町大字伊草・上伊草・下伊草のあたり天正16年前後には伊草本郷・下伊草・伊草宿に区分されていたことが推定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7285382 |


