上村荘(中世)


南北朝期~戦国期に見える荘園名丹波国桑田郡のうちはじめ野口荘上村と称した文和2年4月7日の某袖判下文に「長講堂領丹波国野口庄内上村方」とあり,上村方預所に幸福丸を補任している(三宝院文書/大日料6-18)当荘は寛元年中に宣陽門院が寄進した「弘法大師生身供領丹波国野口庄内上村」にあたり,康永2年から年貢が上進されなかったという(東寺文書/大日料6-18)文和3年2月6日,北朝は「野口庄上村」を安堵した(同前)応永27年の「東寺文書」には「野口内上村荘」と見え,「兼宣公記」応永27年5月6日条,同12日条にも「上村荘」とあり,この頃より独立した荘園名として見える「看聞御記」永享8年2月25日条には「野口上村」とあり,「別納長講堂領」であった当地は崇光院の時に田向宰相が拝領し,この日旧領を再び安堵されている「皇室御経済史の研究」では,後小松天皇のとき上皇の准母日野康子に与えられ,その没後は上皇が管領,崩御の後は後花園天皇が伝領して,その後禁裏御料所となったという「親長卿記」文明3年3月26日条に「上村事定」とあり,同11月22日条には「御料所上村年貢運上過書事」を賀茂社務勝久に申し付けたそして12月13日条で「万五千疋」につき要脚米150石と定められている「言国卿記」文明6年7月10日では,「御料所上村ノタイクハム」に細川政元の家臣香西元忠を補任しているまた「山科家礼記」文明9年正月4日条には同年正月付の過書が載せられており,これによると米・炭など700荷・要脚200貫文を運送することになっていたまた「親長卿記」長享2年3月9日条には「丹波上村毎年三万疋在所也」とあり,当荘からは3万疋の年貢が納められていたその後「実隆公記」明応7年12月22日条にも「御料所上村」とあり,同8年4月9日条には「御料所丹州上村庄」について前代官香西氏が歎申していることが記されている「宣胤卿記」永正3年12月26日条には堺相論があったことが記されているが,詳しくはわからない再び「実隆公記」永正5年10月13日条から当地のことが散見するが,10月27日三条西実隆の取り次ぎで波多野元清が代官に任じられている下って,大永2年8月11日付の「三時知恩寺文書」によれば,「上むらのうち千かはた」は三時知恩院に寄進されていたが,代官波多野稙道に命じて,兵糧料などの課役を免除させている(大日料9-16)以後「御湯殿上日記」によると天文4年頃まで稙直が代官を勤め,同年7月1日9歳の波多野太藤丸が上洛し,代官として後奈良天皇に謁している荘域は現在の亀岡市本梅町平松・中野・井手一帯に比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7375308 |


