赤木村(近世)


江戸期~明治12年の村名牟婁【むろ】郡のうち古座【こざ】川支流小川【こがわ】上流域に位置する地名について「続風土記」には「赤木の木は城の義にして」「山峰抱擁して一区域をなせる地をいひて,赤は兀山の事なるヘし」とある和歌山藩領御蔵所三尾川【みとがわ】組に所属村高は,慶長検地高目録では12石余,ほかに小物成8斗余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに40石余やや広い谷間に棚田がひろがり,またシイタケ・木材・薪炭生産が盛んな山村神社は諏訪明神社寺院は臨済宗東光寺なお幕末には地士塩崎理助がいた(南紀徳川史11)明治4年和歌山県に所属同6年には戸数12,男32・女23同12年東牟婁郡に属し,同年西赤木村となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7403070 |


