中須賀村(近世)


江戸期~明治15年の村名安芸国佐伯郡(もと佐西郡)のうち八幡川(河内川)と石内川の合流点付近広島藩領蔵入地と給知が入り交じる村高は,慶長6年検地429石余(寛政4年中須賀村万指出帳),元和5年「知行帳」では池田中須か村と見え467石余,「芸藩通志」も同高,「天保郷帳」では池田中須賀村と見え同高,「旧高旧領」も同高延宝3年に池田中須賀村から中須賀村に改称されたという説もあるが不詳(五日市町誌)村名の由来は,もと海湾の中州であったことにちなむという(芸藩通志)「夫木抄」に安芸国の歌枕として載せる古歌で,「はじめてやちとせのかげをうつすらん新田の池の春の青柳」とある新田の池を当地とする説がある(国郡志佐伯郡辻)また,中世嘉禎4年4月17日の伊都岐島社廻廊員数注進状(新出厳島文書)や宝徳2年4月日の厳島社神主藤原教親申状案(巻子本厳島文書)に見える「中洲別苻」を当地に比定する説がある(五日市町誌)慶長6年検地によって五日市から分村成立したものと推定される戸数・人数は,寛文11年中須賀村万指出帳54(本家34・小家20,ほかに牛屋23)・219,「芸藩通志」93・469,安政6年組合十六ケ村諸事書出帳では103軒「芸藩通志」によれば,村の広さは東西8町・南北8町,村内に隣村の飛地が入り交じり,用水には恵まれたが時に水難を被り,牛49・馬9,神社は氏神神宮田中寺は弘法大師の開基で本尊の阿弥陀如来は極楽寺の千手観音と同じ大杉で刻まれたものと伝え,天文3年に浄土真宗に改宗,その後一時廃寺となっていたらしく,「芸藩通志」には「廃田中寺」と見える当村の特産に胡粉の製造があり,文化11年に当村の祖平次なる者が広島新開の某よりその製法を伝授されたという製品は上方方面へも積み出された(国郡志佐伯郡辻)助郷は,天保6年に山陽道廿日市宿へ人足299人,玖波宿へ278人が徴発されている(郡用諸事控/和田家文書)明治4年広島県に所属同5年の戸数142・人口572同7年に字池田地に小学校伝教舎が開校,生徒数は男28・女3(文部省第3年報)翌8年には保井田・寺田・寺地村と連合して保井田学校となり,同10年三郷小学校と改称した(八幡村誌)同14年の戸数は136・人口572同15年中地村の一部となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7422971 |


