新魚町(近世〜近代)


江戸期~昭和46年の町名江戸期は小倉城下の1町小倉城の東,紫川と砂津川の間に位置し,江戸期は海に接していた東は博労町,南は京町と接し,西は武家屋敷につながる東曲輪のうち正徳年間には町名が見え,企救【きく】郡柄杓田村や恒見村などの漁村から魚類を買い求めて市中を売り歩く小魚商人が多かったという(小倉市誌)享保の飢饉では13人の餓死者を記録(開善寺過去帳)幕末期の城下町屋敷絵図によると,東西約60m余の道を挟んで30軒程の町家が並び,道の南側で西の端に寿福院,東の端に安楽院がある山口屋喜十郎は藩方御用の水夫雇入を家業とした(小倉市誌)明治17年の戸数35・人口122同22年小倉町,同33年小倉市,昭和38年北九州市小倉区に所属同46年浅野1~3丁目・京町1~4丁目となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7440878 |


