私
【わたくし】
watakusi
【近代】1)公(おおやけ)に対する私的。[中国語]私。private. 2)第一人称、自称の代名詞。略してワタシ、女性はアタシ。なお他に、〈秘密、公平さの欠如〉などの意をもっても用いられる。[中国語]我。I.
【語源解説】
公に対する用法は古代にあり、〈私(わたくし)田(だ)(公(おおやけ)田(だ)の対)(万)とか、〈天神ノ御子、私ニ〔ワタクシニ=ひそかに〕産ムベカラズ〉(記)などみえる。しかし『源氏物語』など古典には人称代名詞としてはみえない(源氏物語や狭衣物語では第一人称はマロ)。16世紀にならねば第一人称の代名詞の用法はない。しかし古代に〈わが国/われ〉の言い方がある点、ワ・タクシ/ワ・レ(カレ、ソレなどとも類推)が考えられ、タクシは何かが問題。『大言海』にワタクシは〈我(わ)尽(つく)シか〉とワ+ツクシ→ワタクシと意見を示す。別の見方から考えると、公がオホヤケでオホは大、ヤケは現代でも〈三(ミ)宅(ヤケ)〉(御・ヤ(屋)・ケ)の姓があるように、家・宅をさすので、大家(オホヤケ)、すなわち大屋敷、大きな邸宅、天皇など、強大な力をもつ人の宮の意をもつのである。御門(帝(みかど))、殿(どの)なども建物が原義であるように、日本語はしばしば建物が、即そこに住む人やその威光を示す。賤しきワ・タク(宅)・シか?ただし、〈宅(たく)〉の語は古代語ではみえず、ワタクシの語源は未詳(なお、宅(ヤケ)yakeはeで終る点、ヤカyakaが源で、その転と考えるべきで、逆ではなかろう)。ワには本来、へりくだる意があって、単独にワwa, さらにw音が落てアaとも用いた(自称のア、ワが古語、方言にみえる)。なおワタクシwatakusiが略され(クkuの脱落)てワタシ、さらにワタシ→ワシ、s音が落ちてワタイなどとなる。また語頭のw音が落ちてワタシwatasi→アタシatasiとなる(ただしこれは女性専用、さらに訛ってアタイとも)。現代でも公的な席では、〈僕(ボク)、俺(オレ)、アタシ〉を用いず、ワタクシ、ワタシを正式とするのも語用の変化から納得できる。
【用例文】
○私(わたくし)に申にはあらず、一(ひと)重(へ)に権現(ごんげん)の託宣(たくせん)/私(わたくし)には陳じ開き難候/私(わたくし)の計(はか)らひ〔自分勝手の考え〕(義経記)○公(く)方(ばう)私(わたくし)〔公(こう)私(し)〕こゝろやすく………誰をたのみて有べきぞ/われに私(わたくし)あらば天これをいましむべし(曽我)○私のはお耳に入りますまいが申しみせませう(mini{和泉流}狂言)○私シノ承ハリタハ、マヅカイサマニ候ゾ(蒙求抄)○ワタクシガタダイマシラヌトマウシタコト/ワタクシガゾンズルタメニナニモノコリマラセヌ/ワタクシヲアザムカセラルルコトハソノイワレガナイ(イソポ)○Vatacuxi. ワタクシ ウエ、ワタクシ=主君と臣下と、また主君と私と/ワタクシナコトヲイウ=権威もなければ公には価値もない自分自身のこととか、自分の意見とかをいう(日葡辞書)○わたくしわかげゆへ人に難儀申掛しが/吉三郎せつなくわたくしは十六になりますといへばお七(しち)〔女名〕わたくしも十六になります/私(わたくし)は或屋敷に勤て奥さままぢかくありし身にて候(西鶴)○わたしが死ねば十方が済みます(近松)○私(わたし)もともに行くはいにゃと/打遣(うつちや)ってお置(おき)、私(わたくし)一人(ひとり)で参(まい)るよ/最(も)う私(わし)もたまらんさかい/〔江戸の人は〕トット人(じん)気(き)が勇(いさま)しいナそれゆゑ私(わたくし)どもも大好(だいすき)でござります(浮世床)○母人(おつか)さん私(わたくし)もお供をいたしませうか/私(わたい)はなんといはれてもいく(梅暦)○瀬(せ)川(がは)さま〔人名〕私(わた)しの言(い)ふは当(あた)りましたろ/お父(とつ)さんもお母(かつ)さんも私の性分は御存じ(樋口一葉)○わたしどうしょうかと思ってゐますの/私(ひそ)かに胸をどき附(つ)かせた/あらわたくしなんにも考へてなんぞゐはしませんわ(森鴎外)○アタイは気をもんだせいか、なんだか汗がでたワ/ワタイのノロケなんぞをなんの因果で(坪内逍遥)○ほほわたくしも行きたいわ/あたしね、おとうさま、おとうさまてばヤウ(徳富蘆花)○私は堕落女学生です(田山花袋)
【補説】
西鶴の作品にはワタシはまだみえず、近松門左衛門の時代にならないとみえない。わたくしは17世紀にはいらぬと一般的にはならず、そのころも女性はワラワとかミヅカラといってワタクシは用いない(オレは用いる)。したがって、ワタクシが男女、年齢、上下にかかわらず用いられたのは17世紀後半であろう。水商売の女、ときに町娘の用いたワチキは江戸後期である。
| 東京書籍 「語源海」 JLogosID : 8538265 |