甘弥郷
【かみのごう】

旧国名:出羽
(古代)平安期に見える郷名。田川郡のうち。「和名抄」にいう田川郡五郷の1つ。高山寺本は「其」につくり,刊本では「甘禰」につくる。其
・甘禰いずれも他国にその例を見ない。他国では,賀美郷(かみのごう)の例が極めて多いことより,「地名辞書」では「甘弥」につくり,「かみ」と訓しており,ほぼ妥当な見解と思われる。甘弥(かみ)は上(かみ)の意であり,田川郡の中心的な郷である田川郷から都により近い越後国の方,つまり上にあるということで甘弥郷と称されたのであろう。その郷域は,田川郷より南の山野・海岸地帯である。ほぼ現在の温海(あつみ)町大字菅野代・温海川・木野俣・越沢・関川の山沿い一帯と同町大字五十川・温海・大岩川・小岩川・早田・鼠ケ関の海岸一帯に比定できる。前者の山里は,越後国より出羽国に至る陸上路の大動脈で,沿道には,館・楯跡も多く見つかっている。また「日本書紀」斉明天皇4年7月条に見える「都岐沙羅柵」はこの郷に設置されたといわれており,出羽国の中でも最も早くから,中央政府の支配下に組みこまれた所であった。なお,鶴岡市西部にある集落大荒・大広・中沢・中山・西目・水沢・矢引の7か村が明治22年の市制町村制によって合併し,上郷村と称したが,ここは,文化・経済的にも田川郷に入るので,旧上郷村を甘弥郷に比定することはできない。平安後期,地方行政支配単位としての当郷は消滅し,さらに,荘園公領制成立期,この地域は,中世国衙領になっていったと推定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7024523 |