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中津城下(近世)


近世の城下町名豊前国下毛郡のうちはじめ中津藩黒田領,慶長5年中津(のち小倉)藩細川領,寛永9年中津藩小笠原領,享保2年から同中津藩奥平領天正15年豊前国の内6郡を受封した黒田孝高(如水)は翌年正月山国川河口デルタの中津に入り,城地とし城郭と城下町建設に着手するが,未完のうちに転封本格的工事は細川氏時代に行われた細川忠興ははじめ中津城に入るが,慶長7年10月居城を小倉に移し,中津は嫡子忠利の居城となったその後も築城と城下町づくりは継続され,元和元年の一国一城令にも老中土井利勝らへの働きが功を奏して残置される元和6年忠興は家督を忠利に譲り,翌7年忠興(三斎)は隠居として中津へ移るこの頃中津城がほぼ完成,城下町づくりに本格的に取り組む金谷【かなや】堤を築き,氾濫を防ぎ,藍(相)原村より山国川の水を城内へ水道で引き入れ,町割をして十間堀を埋めて新博多町をつくったそして城下町の西には広津・小倉口,南に金谷・島田口,東に蠣瀬【かきぜ】・大塚口の6口を設けて各口に番所があり,出入りを監視した町づくりの完成は寛永から寛文までの間(中津歴史)といわれており,小笠原氏にもその工事は引き継がれ,承応元年には藍原村から城下町へ石樋による水道ができており,城下町もほぼ完成した計画都市中津はその配置も整然と行われているデルタに位置することから城の西側に山国川本流を通し,その南の三ノ丸・片端町・殿町などには上・中級武家屋敷・寺社,北の北門通りなどには武家屋敷と港を配し,城下14町といわれる町家は城の東に設け,さらにその東に武家屋敷,寺院を配置している下級武士の屋敷は城の東南の外郭の鷹匠【たかじよう】町・餌指【えさし】町・留主居町などに置かれた街道は城下の南を通り,無用の旅人は城下へ入ることのないようにされていた城下14町は享保3年からは新博多町組(新博多・新魚),古博多町組(古博多・米・姫路),京町組(京・諸),古魚町組(古魚・船・塩),桜町組(桜・豊後),堀川町組(堀川・角木)の6組に編成され,小笠原氏時代には40人の町年寄が月交代で担当していた町政を各町組1名,計6名の町年寄に運営させることとしたほかに6か所の出町があり,享保初年の14町の家数1,373・人口5,166であった藩は城下町商業保護のために,酒造・質屋綿替などの諸商売を城下3里内では許可しないこととして城下町と在方を区別しようとしている一方諸物価の値のひとつひとつに干渉し,商業統制をも目指しているという城下町の町割はほぼ奥行15間で統一されており,享保3年の大火後は町屋の瓦ぶきを奨励している城下町は高付けされておらず,細川・小笠原氏時代には地子負担はなかった「中津歴史」によれば宝暦初年から地子が課されている3里内の諸商売制限の方針は徐々にくずされていった城下近郊の萱津・御手洗・宮永・縄手・蠣瀬などに門外店とよばれる店舗が形成され,城下商業を圧倒することとなる藩では寛政2年には3里を2里に狭め,さらに文化3年には1里としているが,門外店は隆盛の途をたどった文化9年2月の一揆には一揆勢が金谷から金谷口・小倉口に迫ったため藩兵が発砲し死者3名がでている明治4年廃藩置県後も中津町といわれた14町,屋敷町といわれた片端など20町は正式名称としては残置しており,行政区画としての中津町は成立しない63町(下正路浦・角木町・北浦町・角木新町・浦町・南新地・北新地・市場・北堀川町・南堀川町・船場・水主町・矢場・小堀・北稲堀・南稲堀・山ノ下・袋町・鷹部屋・北門通・留主居町・弓丁・船頭町・新堀・寺町・仲間町・鷹匠町・餌差町・桜町・豊後町・船町・塩町・米町・姫路町・古博多町・古魚町・新博多町・枝町・京町・二ノ丁・三ノ丁・片端町・殿町・諸町・新魚町・江三竹町・上博多町・外馬場・西ノ丁・西堀場・本丁・東堀端・中ノ丁・南ノ丁・上ノ丁・古金谷町・森ノ丁・森ノ裏町・高畑上ノ丁・高畑下ノ丁・上ノ段・山の神・焔硝蔵)と2村(萱津・金谷)が合併し,中津町となったのは明治21年7月であった




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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