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五十石町(近世〜近代)


江戸期~現在の町名明治初年~明治22年は弘前を冠称江戸期は弘前城下の1町武家地城郭の西に位置し,西濠(旧岩木川の分流樋ノ口川)を隔てて城郭西の郭に接する南は鷹匠町,北は紺屋町に接して南北にのび,途中東へ入り北に折れる細小路があるまた西は袋町に接する町名は50石前後の藩士が居住する侍町という意味であろうが,実際は必ずしもそうでない正保3年の津軽弘前城之絵図には侍町とある慶安2年の弘前古御絵図では五拾石町と見え侍屋敷28軒(うち空家4)があり,うち1軒は鷹匠である町の東側は川原地で,延宝2年には岩木川掘替え工事として郭外ならびに五十石町の普請が行われているが(津軽史),同5年の弘前惣御絵図には古川とあって西濠はこの時点ではまだ完成していない同8年には五十石町より亀甲町までの川普請があり,延べ2,960人が動員された(国日記)天和2年にも掘替え工事が行われている元禄13年の弘前侍町屋敷割によれば,侍屋敷40軒と馬医1軒と町屋があるまた紺屋町との境に御材木場が置かれている明和元年の藩律では侍屋敷50軒とある寛政改革による藩士土着令で町内の藩士が在方へ移住したため,寛政5年には町内の細小路が御家中潰町の1つに数えられているこの後当町には御目見以下および諸組諸支配の藩士の屋敷が給された(平山日記)文化4年の御家中町割には,町内大通りに37軒,細小路に32軒,合わせて69軒の侍屋敷が見える明治初年の「国誌」によれば,戸数59,町域は「上は鷹匠町より下は紺屋町に至る,屈曲して五丁十五間一尺・幅三間三尺,又町中より東へ通小路あり,東より北に折れ同丁に合す,長一丁五十三間」とある明治22年弘前市に所属明治以降当町は住宅街として推移したが,明治16年に鷹匠町の博習小学と袋町の自疆小学が統合して,当町に城西小学が設置された同19年城西尋常小学校と改称,昭和23年ろう学級が設置されたが,同学級は同25年には独立して県立弘前盲ろう学校となって移転同42年新町の市立第二中学校跡地へ移転し,城西小学校跡には同46年市勤労青少年ホーム,同47年弘前市民体育館が新築落成した昭和3年の賦課戸数59世帯数・人口は,同25年100・467,同50年115・368,同55年107・316

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7250875