油河郷(中世)


鎌倉期の郷村名出羽国平鹿【ひらか】郡のうち鎌倉初期に平鹿郡地頭職に補任された尾張国御家人藤原姓松葉氏は,平鹿郡を苗字の地として出羽国御家人平賀氏となり,郡内の郷村を庶子に分譲したその庶子系の中から油河四郎左衛門尉泰実が出ている(平賀家文書)平賀氏が全国各地に所有していた所領の中に,苗字の地となる油河の地名は平鹿郡をおいてほかにない当時,郡内に油河郷が存在したと推断できる郷名は油川の川名によるか雄物【おもの】川右岸平野部を自然湧水を集めて北流し,多くの田地を灌漑しながら,門ノ目【かどのめ】付近で雄物川に合流する川である油川の下流部の阿気【あげ】地区に,神亀3年開基の観音堂を坂上田村麻呂が八幡神社とし,源義家が鎧を奉納したという古い縁起を持つ正八幡宮がある油川はその御手洗川として名づけられたという(雪の出羽路)阿気地区の館屋敷に城館址があったと伝えられる当地区は阿気野合戦で知られるように,戦国末期に小野寺氏と戸沢氏との角逐の場であり,天正18年太閤検地のとき,戸沢氏の主張によれば戸沢方の支城平鹿郡御所袋【みたらい】城があり,秀吉の命令で廃城となったという戸沢氏家臣に御所袋内匠・同刑部ら,および平賀越後・同孫八らがおり(戸沢家譜),おそらく当地区に関係すると推定される天正18年豊臣秀吉朱印安堵状では「ミフミ堂村」(戸沢文書)

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7258020 |



