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藤塚(中世)


鎌倉期から見える地名加賀国能美【のみ】郡のうち現在の美川町のうちに比定される手取川河口の港である「源平盛衰記」巻28・29の倶利伽羅峠合戦前後の源平両軍の経路に「藤塚」とあるのが初見「一租他阿上人縁起」によると他阿真教が当地に逗留したことがあるという「時衆末寺帳」に載せる「聖号寺」は「元吉」に所在しているが,元吉とは藤塚神社の別当寺元吉寺にちなんだ藤塚の別称である(郷村名義抄/加賀志徴)から,当地に時衆の一拠点があったと考えられる戦国期,享禄4年の大一揆小一揆の騒乱に際して加賀三山坊主側を援助した朝倉勢は藤塚に火を放ち,この時敗れて越前に逃れた国人に「藤墳ノ二木」の名が見えている(朝倉始末記)「郷土辞彙」所引「本吉山王由来記」にいう二木道仙はこれに当たると思われる当地は元来,延暦寺三塔常行堂灯明料所であったが,延暦寺三塔執行は天文5年8月5日この地を支配する石川郡松任組旗本松任藤五郎に対し灯明料運上を遵守するように命令することを本願寺に要請し,また,同月13日には東塔西塔執行が下門備中(頼盛)に押領された「藤塚之内河原」の地の返付を求めていることに「藤塚之内河原」の在所は「昔ハ過分の所」であったが今は30石ばかりの地となってしまったといわれ,享禄の錯乱を境に在地の状況に相当の変化があったことがうかがわれる(以上,天文日記)

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7327552