西小山郷(中世)


鎌倉期~室町期に見える郷名越前国大野郡小山荘のうち平安末期の藤原成通私領小山郷が東西に分かれたのであろう嘉元4年6月12日の昭慶門院(亀山天皇皇女熹子)所領目録によれば,安楽寿院領小山荘のうちに東小山とならんで「西小山」が見える(竹内文平氏所蔵文書)永享12年4月の小山荘田数諸済等帳によれば,春日社が支配を再興しようとしたこの年までには別の領主の給人6人が西小山郷を支配していたという(天理保井家古文書)農民の注進を記したこの帳では,西小山郷の広田は12町6反(うち公田4町1反120歩)で,年貢は122石,田の天役銭8貫820文,畠分15町(屋口12間を含む)の地子18貫500文の計27貫320文,作畠4町5反の大豆17石8斗を負担することになっているこのほか年貢免除の地として,広田のうち2反が目代給,広田外の3反が番頭給とされ,春日神田1町7反180歩,住吉田1反,市祭猿楽田1反,篠蔵社・熊野社流鏑田1反,大杉神田2町180歩が仏神田とされている西小山郷の位置を直接物語るものはないが,畠分のなかに屋口銭が見えること,町を支配する役人としてよく見える目代がいること,春日社の神田が多いことなどから考えて,現在の大野市街地の南の部分あたりを称したのではなかろうか

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7333194 |



