立石知行所(近世)


江戸期の旗本知行所名江戸前期から明治維新まで伊那郡内を支配した近藤氏の所領伊那郡領有以前,近藤政成が高井郡内・美濃国内に1万石を領したが元和4年6月死去嗣子重直(重尭)は幼年のため遺領の半分高井郡5,000石を相続し,旗本となった(寛政譜)翌5年5月高井郡に福島正則領を用意するため,重直は井上庸名とともに伊那郡に移封立石村に役所を構え,立石知行所が成立伊那2代目の重信が襲封した天和2年5月,甥重興に700石を分知,4,300石となる所領は山本(分郷)・河内・栗矢・合原・梅田・鴨目・大島・恩沢・大久保・小松原・立石・上穂(分郷)・大草(分郷)・小川(分郷)の14か村安永9年の総人数3,786人天保3年の実高4,420石余分知の所領は粒良脇・北又・大平・梅田の4か村で,享保11年の人数471人(県史)参勤交代する交代寄合の旗本であったが,宝永年間本知・分知とも江戸定詰めとなったこれ以降代官は地元農民を登用することが多く,その出身地の関係から,享保年間頃と寛政年間以降,陣屋は山本村に転じた(山本知行所)本知領主は,重信以後,政徳・政共・政方・政明・政道・政賢・政養と襲封,伊那10代政敏の明治2年版籍奉還,知行所を伊那県に引き渡した(県史)

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7340241 |