稲荷(古代〜中世)


奈良期から見える地名山城国紀伊【きい】郡のうち東山連峰の南部稲荷山の西麓,稲荷神社周辺一帯の地域奈良街道が南北に通じ,西を鴨川が流れ,南は深草に接し,北には東福寺が位置する地名の由来について,「倭訓栞」に「神代記に,保食神の腹中生稲と見えて,稲生の義なり,稲荷と書に据ば,もとはいなにといひし成べし」と記す「山城国風土記」逸文に,「称伊奈利者,秦中家忌寸等遠祖伊侶具秦公,積稲粱有富裕,乃用餅為的者化成白鳥,飛翔居山峯子生,遂為社名」と記され,由緒の古い地名しかし,ここに「為社名」とあるように,古記録・古文書に頻出する「稲荷」はほとんど稲荷神社を指し,純粋に地名として現れる場合は少ない稲荷神社は和銅4年の創始にかかるものといい(二十二社註式など),「延喜式」神名帳には「紀伊郡八座」のうちに「稲荷神社三座〈並名神大,月次新嘗〉」と見えて,朝野の厚い崇敬をうけた天長4年正月,淳和天皇が使を派して病平癒を祈らせ(日本逸史),貞観8年7月14日,奉幣して神徳を謝し兼ねて嘉澍を祈らしめた(日本紀略)ことなど,朝廷の祈祷・奉幣の例は数多く,行幸もまた少なくなかった「大鏡」に,九条兼通の姫
子のことを記して,「物まうで,祈りをいみじうせさせたまひけるとか,稲荷の坂にても,この女ども見奉りけり」と述べるように,貴賤の稲荷詣での例も多く,ことに「今昔物語集」の「今昔,衣曝ノ始午ノ日ハ,昔ヨリ京中ニ上中下ノ人稲荷詣トテ参リ集ノ日也」の記事から知られる通り,2月の初午の日の参詣は著名である「大鏡」の記す「稲荷の坂」は稲荷山への参詣路を指すはじめ稲荷社は稲荷山山頂の三か峰に鎮座したのであり,現在地に遷座したのは室町期永享10年のことと伝える(稲荷谷響記)門前集落の形成は早くから見られたと推測されるが,古い時期には史料上の所見はほとんどない元徳2年12月23日,稲荷社司宗御房丸屋地売券の差出書に,売主・請人の住所を「いなりのすし」「いなりのこをう(ちカ)」「いなりのいまさいけ」などと記し(九条家文書3-732),正慶元年6月28日の尼妙□屋敷畠譲状に,「ゆつりわたす いなりのやしき畠事」などと見えるのが(同前3-733)早い例かと思われる戦国初期になるが,「大乗院寺社雑事記」文明17年10月19日条に,「京上道之次第自南至北次第ハ」として「木津,狛……木幡,藤森,イナリ,法性寺」と記すことからも理解されるように,この地は交通上の一要地であって,したがってまた戦乱の時期にはしばしば軍陣が置かれた建武年間には,稲荷社や稲荷山が陣営・戦場となったことを記載する軍忠状が幾通ものこり(田代文書・吉川家中并寺社文書など),「梅松論」にも建武3年の合戦の模様を「細川殿の勢は木幡山の上に打あがり,稲荷山を経てあみだが峯の敵のうしろに近付しかば云々」などと描写した箇所があるのち「応仁記」にも,文明3年3月の動向を「勝元,呉服ノ織物,金作ノ太刀ナド給ケレバ,山科ヨリ稲荷へ打越テ,社務羽倉出羽守申合,イナリ山ノ上ノ社ニ陣ヲ取」と記している戦国期に至り稲荷の住民らは惣を形成していたと見られる天正期に「惣作」の田地が出現し(後掲検地帳),また旧により稲荷社ならびに稲荷郷内の山林の竹木伐採を禁じた,天正10年7月23日付北畠信雄禁制が,「稲荷郷中」に宛てられ(稲荷神社史料),やはり天正期の「当郷御代官,此方へ被仰付候条,可成其意候」と通達した卯月28日付前田玄以書下の宛名が「稲荷村百姓中」とされているのなどは(同前),それをうかがわせるものといえよう天正17年11月には,豊臣政権による稲荷村の検地が施行され,その検地帳3冊が残るそれには総計590石1斗7升6合9勺の田畠が記載され,石たうの本・くろとり・ふんかうし・下河原・かち作・柳ノ内・辻堂・茶屋ノ前・中河原・竹田ゆのはた・きやう田・あミたたうしり・くも四郎作・おかや作・下河原・かいしやうし・一ノ坪・そとハの本・ふけの内・な畠・山田・さゝ山・六間在家・三反め・横なわて・すゝつか・わかい・北ノ谷・はらい川・高畠・地蔵之前・かりや・鳥井ノ前・すミ田・ゆまたけ・八条ノ坊門・おかたいのはた・長くろ・車たいたう・ひらの田・河くほ・ヒモノヤ作・つかの本・はゝの本・はゝ・ゆのうら・ほうしやうし・ふかくさゆの下・くら所・せかき・ゑんつう寺・三大り・ちやの木・そうはたけ・道のはた・きやうす・はうりはたけ・十石畠・かいと・わかへ・六反田・はいあかり・大道・大道ノハタ・弥九郎作・北かいと・東正かくなどの字名が検出される(同前)なお,紀伊郡条里の10条穴田里18坪(現南区上鳥羽南鉾立町東南部)を通る「稲荷縄手」という道路の存在が知られる(年月日未詳,唐橋在忠所持田畠注文草案/九条家文書4-1292)

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7373880 |



