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紀寺新屋敷町(近世)


江戸期~明治17年の町名奈良町に隣接する紀寺村内に形成された町場の1つで,慶長・寛永年間以降に奈良町に編入された町の扱いをうけ,村方とは区別された興福寺の寺社下町の1つで,奈良町の南方触口支配に属する寛文初年以前の作製になる奈良絵図(東大寺図書館蔵)には紀寺新町と見え,「奈良佐良志」には単に新屋敷町とある奈良町の南端,紀寺町(現西紀寺町)・高山町(現川ノ上突抜南方町)の南に位置する東西通りは奈良期の左京五条大路,南北通りは上津道という地名の由来は,「奈良坊目拙解」によれば,古くは紀寺の境内で,その廃亡後田野となり,のち新たに田地を開き民家となったのにちなむというまた同書によると,奈良南東の際限で「古市・山村・鹿野園・白毫寺・田原郷・高樋山等出口街路」にあたり,寛永年間以後田地を開き民家となるという当町内のうち東西通り南側西を七軒町あるいは七軒町組,南側東を新屋敷南側(頬)町あるいは新屋敷南側(頬)組とも称し,東側の南北通りを新屋敷東側(頬)町あるいは新屋敷東側(頬)組ともいう(奈良坊目拙解・奈良惣町中諸事覚帳・奈良佐良志)ただし,「奈良佐良志」などでは七軒町を当町に含めず別に記載することが多い元禄2年の家数32,竈数58うち大家32・借家26,享保14年には七軒町を除いて役家数10,家数22,竈数33うち大家21・借家11(奈良市史通史3)「奈良坊目拙解」によれば,紀寺町の崇道天皇神社の氏子区域明治17年紀寺村に編入なおその後も現在まで奈良市紀寺町のうちの通称新屋敷町として存続するが,昭和10年代には通称七軒町も新屋敷町のうちに含まれることになった

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7399206