辻堂竪小路(近世)


江戸期の通称地名佐賀城下の武家屋敷地辻堂ともいう地名の由来は北端近くに辻堂があることにちなむ佐賀城の北西に位置する通りは辻堂から南に走り,竜泰寺小路の東端に達する東は西堀端に接し,西は北部地区が武家屋敷を隔てて妙安寺小路に,南部地区が与賀【よか】馬場に接する弘化2年の総着到によると,居住武士数は5名,その総石高は410石平均石高は82石で,中下級武士の居住地であったことがわかる元文5年の屋敷帳をみると,与賀社の社人が3人,惣命婦・命婦などの巫子がいるほか,多久家や村田家の屋敷があり,神代鍋島家の家来も住んでいる与賀馬場の東端に接するあたりに鎮座する与賀神社の祭神は与止日女大神慶長8年に寄進された三の鳥居をくぐると西向きの朱塗り2層の楼門があり,県内最古の室町期の建造物である楼門の奥にある拝殿や本殿は6代藩主鍋島宗茂から7代藩主重茂の代にかけて造営された社宝には備前の刀匠康光作の太刀や永正10年の宗源宣旨,延享4年から寛延元年にわたる社頭日記,嘉永・慶応年間の宗門改帳,延宝6年2代藩主鍋島光茂夫人の寄進した永松玄偲などの与賀大明神縁起がある承応3年佐賀城廻之絵図や元文5年の御城下絵図をみると,与賀社の北方に浄土宗光照寺と十念寺,法華宗梅林寺,南方に天台宗延命院と印鑰社,東方に宮司坊がある現在は十念寺や梅林寺はなく,印鑰社の跡は印鑰大明神の石祠と印鑰橋が残っている光照寺は知恩院の末寺で竜造寺隆信が建立したもの開山は空円で,多布施【たふせ】村に寺領8反9畝余を有していた十念寺は時宗の寺の跡地に光照寺3代空誉の隠居寺として鍋島直茂の時建てられた延命院は比叡山延暦寺の末寺創建年代は不明だが,与賀社の神宮寺の1つ元和・寛永年間の頃住職であった豪賢の時,勝茂夫人高源院から色衣を許可され,延命院の号を下された宮司坊は延命院の末寺で,敷地1反16歩は免租になっていた「明治7年取調帳」では与賀村の枝町として「辻ノ堂名」と見える与賀村は明治14年に与賀町となるが,当地は明治前期に与賀町のうちに含まれるようになった

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7445894 |



