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竹の浦(中世)


室町期~戦国期に見える浦名対馬国のうち与良郡に属す古代の竹敷が中世には竹の浦と呼ばれるようになったものである応永11年12月20日の宗正永書下写に「一所,たけの浦……の事さわミの此まゝさたあるへく申候」とある応永16年3月18日,宗貞茂は「たけのうら」の徳ゑもんに対して,親ゑもん四郎の跡目として「居屋敷畠地下部等」を安堵したゑもん四郎は応永5年12月30日の宗貞茂書下写に「高尾ゑもん四郎」と見え,当地に高尾氏を称する人々が存在したらしいことがうかがえる年未詳12月5日の宗貞茂預ケ状写には「たけの浦,ふねのうり口かい口,山手」とあり,武尾三郎兵衛尉に預け置かれている(宗家御判物写/県史史料編1)俵ひこ三郎にあてた文安4年4月15日の宗貞盛書下写には「くろセたけの浦,けんはくの事,しさいあるへからす候」と見え,俵隼人佐にあてた寛正2年12月7日の宗成職書下写および俵長門守にあてた文明4年9月2日の宗貞国書下写では,黒瀬・竹の浦の百姓に関する記載が見える(馬廻御判物帳/同前)長禄2年12月24日の宗盛真書下写および応仁年間10月23日の宗貞国書下写には,「たけの浦の四郎兵衛かおくりこいて」を代々の御判の旨にまかせて免除することが見え,寛正6年6月19日,宗盛直は宗貞茂の御判の旨にまかせて,竹の浦の助四郎に対し諸公事を免除した文明11年4月11日および12日のやすむら房家・野かみ景郷連署書状写の宛名は対州竹の浦の五郎左衛門となっている(宗家御判物写/同前)文明19年3月17日,斎藤将監は宗貞国および宗茂勝の書下により,黒瀬・竹の浦の釣船公事の知行を安堵された(斎藤文書/大日料8‐20)年未詳2月27日の宗国親書状写には「たけのうらさた人所へ」と見え,天正8年閏3月4日,宗昭景は竹の浦の市左衛門に所々并びに居屋敷等を安堵した(宗家御判物写/県史史料編1)「海東諸国紀」には「多計老浦〈八十余戸〉」と記されている江戸期の竹敷村にあたり,同村は江戸前期の資料に竹の浦村とも見える現在の美津島町竹敷に比定される

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7448622