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![]() | 仙台[東北地方] |
近世〜現代の都市名。江戸期には伊達氏62万石の城下町。明治以降は仙台県を経て宮城県庁所在地。東北の拠点都市。青葉山丘陵が東北にのびるのを広瀬川が西北より切って南東流して深い渓谷をなして西部を限り,すそ野が東部に緩くくだって宮城野原に展開しようとするあたり,旧宮城郡荒巻・小田原・小泉・南目4村および名取郡根岸村の5村入会に新しく割り出された政治都市。地名の由来については,「伊達治家記録」「封内風土記」などは,この地に千体仏があったのに由来し,それが千代となって国分氏居城名となっていたのを,伊達氏が仙台と雅名に改めて継承したという説をとっている。これに対して千代城(仙台城)のある地が川内であり,川内の音読が「センダイ」で,現に鹿児島県には川内(せんだい)市もあることから,仙台の呼称はその始まりをなした川内の地の音読が千代となり仙台となったという説(奥羽古史考証),またアイヌ語セプナイ(広い川のほとり)の意とする説などある。青葉山には先土器・縄文時代の遺跡があり,広瀬川の愛宕橋付近には横穴古墳もあった。古代は多賀城下の西辺をなし,荒巻地区には郡山の地名があり,宮城郡衙所在地だったと思われる。鎌倉期,多賀城および市の東部地域中心に奥州留守職家の留守氏の支配が始まる。留守氏は岩切城により,宮城の東半分の小戦国大名に成長する。これに対して,宮城郡の西半には国分氏の支配が形成され,南北朝期頃から,両氏は激しく郡の総領主権を争った。「伊達正統世次考」によれば,国分氏は世々千代城に居城したが,中ごろ小泉城に移り,最後は松森城に移ったとある。しかし慶長元年国分盛重が改易されるまで,千代城はやはり国分氏の主城の1つになっていたと考えられる。関ケ原の役終了後の慶長5年,伊達政宗は山岡重長を上洛させて徳川家康の許可を得て,同5年12月24日,旧千代城跡に新城築城の縄張を始め,同時に千代城の呼称を仙台城に改称,新城下町も仙台と呼ばれることになり,62万石大藩治府の誕生となる。
【千代(中世)】 仙台の呼称の成立には諸説があるが,直接的には,千代【せんだい】を承けて,これを雅名に改号したものとみるべきもののように思われる。
【仙台城下(近世)】 慶長5年〜明治4年の城下町名。
【仙台区(近代)】 明治11〜22年の区名。
【仙台市(近代)】 明治22年〜現在の自治体名。
