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![]() | 萩原[四国地方] |
「はぎわら」ともいう。讃岐山脈の西端にそびえる雲辺寺山の北西に位置し,南部は高尾山北麓の急傾斜地,東部は雲辺寺ケ原と呼ばれる緩傾斜台地,北部は三豊平野からなる。地内には文明2年築造の大谷池(面積14ha余・貯水量93万t余)があり,柞田(くにた)川が北流する。古刹地蔵院(萩原寺)の所在地。古来「四国の辻」といわれ,伊予・土佐・阿波3か国に通じる入口にあたった。地名の由来は,高尾山千手院開基伝来記に「山麓之間不残為境内地以寄附也矣」とあるが,中之坊地蔵院(萩原寺)の境内地であったことにちなむと思われる。またアイヌ語の語源からは,ハギは頭首拠点の地,ハラは都を意味するとの解釈も成り立ち,地内には関・烽(とぶひ)の地名も伝えられている。さらに新任の国司が任地の国境で土地の在庁官人らの出迎えを受けて饗応される「はばきぬぎ」の地,国境の接する接目(はぎめ)地の原が転訛したものというものや雲辺寺山裾野の高原に萩(または蓬)が自生していたことにちなむなど諸説がある。「日本アイヌ地名考」によると,高尾山の別称高鈴木のスズは清浄な場所を指すとされ,高尾山頂には男根を祀る祠もある。満濃池・宮池に次いで古く造られた大谷池は,地蔵院中之坊慶恵上人が斎藤下総守重敦にはかって,大谷寺のほとりに,文明2年長さ113間・高さ2間の堤を築いたことが始まりであったと伝える。鋳物師岡から縄文時代の石斧,柞田川右岸近くの岡ノ山からは石鏃が出土した(鎌田資料博物館蔵)。また地内には岡の宮古墳群遺跡地,金環・太刀が出土した王塚古墳,江戸期に20基存在したと伝える塚松古墳群,そして古社(元宮)古墳がある。同古墳の頂には寛文4年まで宗像神社が鎮座していた。同社は孝徳天皇の時代に筑前国岡島から迎えられたと伝え,下ノ宮・古社と呼ばれた。下ノ宮に対し,上ノ宮は井上大明神にあたり,「延喜式」の於神社である。同社の祭神である,罔象女命は用水をつかさどる神水端女ノ神と考えられ,落出用水の取入口の守護神とされてきている。
【萩原(中世)】 室町期から見える地名。
【萩原村(近世)】 江戸期〜明治23年の村名。
【萩原村(近代)】 明治23年〜昭和30年の自治体名。
【萩原(近代)】 昭和30年〜現在の大野原町の大字名。
