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(近代)昭和26年〜現在の字名。はじめ久志村,昭和45年からは名護市の字。沖縄本島北部の東海岸,大浦湾の奥に位置する。もとは久志村大浦の一部。字名は,楚久原と杉田原の2つの集落からなることにちなむという(久志村誌)。集落は,楚久川および杉田川の下流,急峻な谷あいの小低地に立地する。明治12年の廃藩置県以降,首里や中頭(なかがみ)方面の士族,また名護・羽地・本部(もとぶ),さらに与那原(よなばる)や平安座(へんざ)からの人々も移り住み,大正期の全盛期には80軒を数えたという。人口の増加により,昭和2年大川とともに行政区として独立したが,地籍は未分離のままであった。大浦のハルバンヤー(屋取)として,はじめ山手の方に住みつき,のち低地に移る。当時の仕事は山仕事が主で,木材や薪の切出し,炭焼きで生活を支えた。大正のはじめ頃まで,楚久川を挟んで南には瀬嵩(せだけ)の,北には大浦のタモン座(薪炭集積所)が設けられ,与那原との間に山原(やんばる)船が行き交った。楚久の入江は,台風時には山原船の避難所でもあった。大正10年,西海岸との間に郡道が開かれたが,それまでは楚久曲と呼ばれる陸路の難所であった。沖縄戦直後の昭和20年7月頃には沖縄本島中・南部からの避難民や疎開者が収容され,楚久では2,667人,杉田では2,254人に達したという(久志村誌)。同年9月25日久志地区が久志市となり,楚久は二見区に,杉田は東喜(とうき)区に分かれる。同21年1月1日の人口は,二見区1,190,東喜区323,計1,513であるが,疎開者の帰村とともに同年12月7日,両区をあわせて二見区となる。同22年10月の戸数71・人口344(同前)。収容所の置かれた時,二見を中心に「二見女童(みやらび)や,だんじゅ肝清(ちむちゆ)らさ,海山ぬ眺み,他所(ゆす)にまさてヨ」で始まる「二見情話」が作られた。この歌はその後沖縄を代表する民謡(情歌)として有名となったが,もともとは収容所時代に世話になった地元民へのお礼として,土地の人情と風物を歌にしたものであるという。世帯・人口は,昭和45年38・159,同55年31・88。同年の就業者総数39うち第1次産業従事者14・第2次産業従事者12・第3次産業従事者13。
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