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PLO


Palestine Liberation Organization

 パレスチナ人の政治組織で、1964年のアラブ首脳会議が設立を決定した。当初はパレスチナの解放というよりは、エジプトのナセル大統領パレスチナ人を管理する組織としての色彩が強かった。しかし67年の第3次中東戦争アラブ諸国が大敗すると、アラブ諸国に頼るのではなく、パレスチナ人自らの力でパレスチナを解放しようとする動きが高まった。その代表がファタハ(パレスチナ解放運動)の指導者ヤセル・アラファトであった。アラファトは、69年にPLOの議長に就任した。PLOは当初、ヨルダンに拠点を置いたが、70年9月にヨルダン政府軍の攻撃を受け(ヨルダン内戦/黒い9月)、大きな犠牲を払った後、拠点をレバノンに移し、ベイルートを本拠とした。レバノン南部からイスラエルゲリラ攻撃をかけたため、レバノン南部はファタハランドと呼ばれるようになった。イスラエルは82年夏にレバノンに侵攻、レバノン戦争を引き起こした。イスラエル軍はファタハランドからパレスチナゲリラを一掃し、ベイルートに殺到した。イスラエル軍包囲下のベイルートからアラファト以下のPLOの戦闘員は脱出し、チュニジアの首都チュニスに移った。PLOは一枚岩の組織ではなく、パレスチナ人の多くのグループの合同体である。その中でアラファトが指導力を発揮してきたのは、最大組織ファタハを率いていたからだ。その背景には豊かな資金力があった。ペルシア湾岸で働いていた80万のパレスチナ人が支払う解放税をファタハが握っていたからである。さらに湾岸の君主たちがアラファトに資金援助を行ってきた。ところが湾岸戦争でアラファトイラク寄りであったことで、湾岸の君主たちはアラファトへの資金の流れを止めた。資金面から、その指導力に陰りが見え始めた。さらにソ連圏の消滅によって、PLOは政治・軍事的なスポンサーをも失い、イスラエルとの和平へと追い込まれた。アラファトは暫定自治を受け入れ、94年パレスチナに戻った。95年4月、パレスチナ民族の最高意思決定機関であるPNC(パレスチナ民族評議会)を開催し、イスラエルの破壊を目標として掲げたパレスチナ民族憲章を修正した。96年1月には自治地域で評議会と自治政府の大統領の選挙が国際監視下で行われ、アラファト支持勢力が圧勝した。PLOは、その実質をパレスチナ暫定自治政府に変身させつつあった。両者の長であったアラファト2004年に死亡、05年マフムード・アッバスが後継者となったが、06年1月の評議会選挙でPLOに参加していないハマスが圧勝。PLOがパレスチナ人を代表するという主張を根底からくつがえす事件だった。




朝日新聞社
「知恵蔵2009」
JLogosID : 14846270