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石狩川
【いしかりがわ】


道中央部を流れる1級河川。石狩川水系の本流。幹線流路延長268.2km,流域面積は1万4,330km(^2)。大小含めて約1,600本に及ぶ支流を有する。石狩山地の石狩岳(1,962m)北麓に水源を有し,層雲峡から上川盆地に入り,忠別川・美瑛(びえい)川などを合わせ,神居古潭(かむいこたん)の峡谷部から空知低地帯に出る。さらに南流して最大の支流空知川を合わせ,石狩平野中央部で幾春別川・夕張川・千歳川を合流し,北西に転じて豊平川・当別川を合わせ,石狩市で日本海に注ぐ。かつては道央低地帯を南流して太平洋側に河口を有したが,支笏(しこつ)カルデラ形成時の火砕流の堆積により流路を北に転じたという。文化年間の蝦夷一円之図や蝦夷大概之図などにはこの川の注記があり,寛政年間の「松前東西地理」は上流部を記す。安政4年の石狩詰足軽松田市太郎による「イシカリ川水源見分書」では「無名高山並ニ……是ヨリ外ニ水元ト覚敷沢相見得不申候間……此所へイシカリ水元ト記シ」とあり,この無名高山が石狩岳とすれば,水源を確認したことになる。また松浦武四郎の「丁巳日誌」にも石狩川上流部の踏査があるとされる。後の内務省測量局長,荒井郁之助の「石狩川見込書」には「石狩川ハ……北海道ノ内部ニ舟揖ノ便ヲ興サントスルニハ実ニ造化ノ賜ト云フベシ」とあるように,中・下流部には多くの蛇行帯と河跡湖がみられ,きわめて低平で,開拓使顧問H.ケプロンも明治6年に石狩川を石炭運送に当てるべきとする報文を提出した。幕末にはすでに石狩~札幌間の舟運がみられ,樺戸集治監の開設も中流域の原野の開拓と舟運の便を考慮したもの。明治22年には石狩川汽船会社が石狩~浦臼町札的内(さつてきない)の間に通船を運行した。広大な石狩平野はこの川の中・下流部に展開する。その大部分は道内最大の泥炭地域で,原野名を冠した地名が多かったが,大正中期以降は土功組合により土地改良が行われ,水田化が進んだ。戦後は石狩川水域総合開発計画により,治水のほか高位泥炭地の水田化などが行われた。この結果空知南部から石狩地方にかけては畑地から水田への転換も進み,右岸では篠津運河,左岸地域では北海灌漑溝など,わが国屈指の用水施設が整備され,上川盆地と並ぶ道内の主要米作地として,経営規模の拡大と高い生産力を実現した。この川の水害は主に融雪水と夏の大雨に起因し,明治31年の大洪水をはじめ昭和56年の被害に至るまで多くの洪水が発生した。戦前の洪水対策は蛇行帯をショート・カットする捷水路工事が主で,下流部の生振(おやふる)新水路など29か所で施工された。このため流路が約100kmも短縮され,多くの三日月湖が出現した。戦後は道開発局に石狩川開発建設部が設置され,主にダム建設と築堤方式による水害対策が実施され,主なダムには本流上流部の大雪ダム,支流での雨竜第1・金山・桂沢・大夕張・豊平(ほうへい)峡などのダムがある。これらの事業で水害の危険性は相対的に低下したが,被害地域が下流部に移行する傾向にあり,支流の中小河川による内水氾濫が顕著になった。最近では本流の水位低下を図るため,太平洋側に排水する放水路計画もあるが,環境変化などの点から実現は懸念される。「石狩川治水史」によれば,現在この川からの取水量は総計で毎秒1万3,600t,総発電量は28万4,000kw,灌漑面積は11万8,222ha,上水道用水を取水する市町村は37を数える。このほか何らかのかたちで流水に依存する市町が57に及び,全道自治体数の4分の1を占める。工業用水の利用に加え,旭川のパルプ・製紙工場,化学工場・火力発電所の排水,石狩炭田の選炭用水,流域市町村の生活排水が原因となる水質汚濁も問題となった。昭和15年開業の国策パルプ旭川工場が排液を支流の牛朱別川に排水したことによる被害は,被害者農民の運動により,昭和39年に工場への施設改善命令が出され,一応の解決をみた。水質汚濁はサケの溯上にも大きな影響を与えた。寛政年間にイシカリ場所は蝦夷地第一のサケ漁獲を誇り,明治10年には開拓使が石狩鮭缶詰所を設置したが,捕獲数は昭和30年以降急減,最近は水質改善と孵化事業の成果により,捕獲数が増加し,札幌市内の中小河川への溯上が話題になっている。河口付近にはともに全道一の長さを持つ,国道231号の石狩河口橋(1,413m)と札沼(さつしよう)線の石狩川橋梁(1,074m)がある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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