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口蝦夷地
【くちえぞち】


近世の,蝦夷地の地域称の1つ。東蝦夷地・西蝦夷地のうち。松前地(和人地)に近接する地域を奥蝦夷地と区別して呼んだ。領域は必ずしも明確ではないが,「地名辞書」は胆振(いぶり)・後志(しりべし)2郡を口蝦夷地に比定。通説に従えば,東岸では襟裳(えりも)岬,西岸では神威(かむい)岬を境とする。天明年間以降,和人地での鰊漁が不振となり,蝦夷地内への和人漁民の進出が活発化。これを追鰊と称し,本州の魚肥需要により近世後期にはさらに活発化した。東蝦夷地では寛政12年に松前地に接する箱館六ケ場所が「村並」となり,和人地化するが,西蝦夷地は松前藩の規制も厳しく,さらに有力場所請負人が運上屋直営による漁場経営を守るため,漁民の進出を抑える姿勢を強めた。天保年間には追鰊が増毛に及んだとされ,和人地西在諸村,特に江差付諸村に流入した零細漁民の北上を阻止することは困難であった。漁民の定住を抑える一手段が,古来アイヌの信仰の対象で,通船の難所でもあった神威岬(御冠岬・ヲカムイ)の女人通過のタブー化で,松浦武四郎の「西蝦夷日誌」には,神威岬以奥への女子通行が禁じられた結果,同所以南に漁民の妻子や遊女が留まり,集落の発達も目覚ましいこと,奥地不漁時にはシャコタン以奥で和人の婦女子探索が行われたことが記される。口蝦夷地内の状況は,東西両海岸で様相が異なった面も多い模様だが,従来は蝦夷地として和人の定住が禁止された中にあって,和人進出が最も活発な地域で,場所請負人は蝦夷地での大網使用に伴い,アイヌに替わる零細漁民の労働を必要とした。安政2年春に発生した網切騒動は,江差以奥,乙部村から熊石村まで8か村漁民が口蝦夷地での場所請負人らの大網使用による鰊漁が,和人地前浜での鰊漁不振の原因であるとして騒動となったもの。騒動以後は,出稼人らを中心に積極的に大網を導入,操業範囲も口蝦夷地から,中場所・奥場所へと拡大・発展していった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7002732