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十勝川
【とかちがわ】


十勝地方を流れる1級河川。十勝川水系の本流。流路延長156.3km,流域面積8,226.2km(^2)(このうち平地が3,002.8km(^2))。流路延長は道内で,石狩川,天塩川に次いで第3位,流域面積は石狩川に次いで第2位。石狩山地南部の十勝岳(2,077m)連峰に水源を発し,十勝平野内陸部の洪積台地と,沖積平野を潤しながら東ないし南東に流れ,豊頃町大津で太平洋に注ぐ。主要な支流には,右岸側では日高山脈に水源をもつ佐幌川・芽室川・帯広川・札内川,左岸では石狩山地に水源をもつ然別(しかりべつ)川・音更(おとふけ)川・利別川などがある。本川は,上流から新得町・清水町・芽室町・帯広市・音更町・幕別町・池田町・豊頃町・浦幌町の1市8町を流下する。河口近くの下流域は,かつて浦幌町ベッチャロ付近で2つに分流し,東側は浦幌町十勝太に河口をもつ十勝川(現在の浦幌十勝川),西側は豊頃町大津に河口をもつ大津川(現在の十勝川)となっていたが,昭和38年改修工事により,本流であった東側の十勝川が切り離されて大津川の本流一本となった。十勝川の踏査は,寛政12年幕府八王子千人同心配下の皆川周太夫がサツナイプト(札内川河口)付近まで溯上したのが最初で,松浦武四郎の安政5年の2度に及ぶ十勝川筋の探査で,水系の全貌が初めて明らかになった(山川地理取調図)。本格的な測量は,開拓使雇のアメリカ人,M.S.デーによって行われ,明治9年の道庁版20万分の1実測図に水系の正確な姿が示された。十勝平野の開拓は,十勝川筋の谷底から始まり,明治15年の十勝開拓の祖依田勉三の入植地下帯広,同26年十勝地方最初の稲作成功地音更村(当時)の士幌川落口付近も谷底にあった。当時,内陸への交通は十勝川の水運が主で,明治35年頃は,大津(河口)~利別太(利別川との合流点付近)間は70石積,利別太~帯広間50石積の川舟が1日30余隻往来していたという(帯広市史)。しかし,明治26年の大津街道(帯広~大津間)の開削,同31年の狩勝峠越えの石狩街道(帯広~旭川間)の開通,さらに帯広への官有鉄道の開通(明治38年帯広~釧路間,同40年帯広~旭川間)により,道路,鉄道輸送が主となり,大正初期には河川定期船は廃止された。渡川も,開成橋(明治38年帯広~音更間)を初め,木橋が整う明治末期までは川舟が主で,明治33年開設の伏古~然別間および帯広~下士幌間(通称越中渡し),同35年開設の茂岩渡船場(現豊頃町)などがあり,茂岩渡船場は,茂岩橋が完成する昭和36年まで残った。昭和30年以降大規模な架橋が行われ,十勝川三大架橋として,茂岩橋(長さ946m)・千代田大橋(池田町~幕別町間,昭和41年完成,長さ706m)・豊頃大橋(茂岩橋上流側0.5km,昭和58年完成,長さ984m)がある。十勝川は,上流に急峻な水系をもつため「暴れ川」と呼ばれ,流域は数多くの水害に見舞われた。特に明治31年,大正11年の両水害は,十勝川が原始河川の状態であったため,大きな被害を及ぼした。昭和12年には,池田町千代田~茂岩間に直線状の放水路が掘削され,中流川尻から下流の河川切替えを行う大工事が完成した。戦後は北海道総合開発の一環として全面的な治水対策が進められ,河口部の一本化などのほか,昭和44年には,下流部に至る沿岸の全面的な護岸工事,さらに昭和57年には,下流の下頃辺川を経て浦幌十勝川に一部排水する延長1.4kmの導水路が完成した。上流域は,大正期~昭和20年代に,支流の音更川・佐幌川などを含め林業が盛んで,大正期には音更川との合流部(越中渡し付近)に音更川・然別川の木材流送を受け止める網羽が設けられ,戦後は本流の上流,屈足(くつたり)~二股間に十勝上川森林軌道(昭和25年完成,同39年廃止)など木材運搬の施設があった。北海道第2期拓殖計画以降,上流は電源開発域として注目され,昭和17年本流上流の岩松発電所およびダムが完成した。戦後の北海道総合開発計画では,音更川・然別川・利別川,その支流芽登川との水系一貫型の開発が進められ,岩松発電所の増設・一体化(昭和31年),糠平ダムおよび発電所の建設(音更川,昭和31年完成)のほか,昭和47年には本流の上流トムラウシに十勝ダム(多目的ダム)が着工され,同59年に完成した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7005492