100辞書・辞典一括検索

JLogos

10

松前地
【まつまえち】


江戸期の地域名。和人地・日本地・日本人地・人間地・シャモ地などとも表記するが一定した呼称ではない。渡島(おしま)半島南岸西部の熊石から東部亀田近辺に至る地域。「松前」と称することが多く,北海道における和人居住域を意味し,松前藩領の内,和人が主たる居住者で,和人の村落共同体(行政村)の所在地,和人人別の登録地であった。領域は年代的に変化するが,天文20年の「夷狄之商舶往還之法度」により,西は上ノ国(天ノ川),東は知内(しりうち)(知内川)を境界とする和人地が形成されたのが最初。松前藩の確立と和人来住の増加のもとで,アイヌとの混住の様相を見せながら次第に領域が拡大され,寛永年間頃には,西は江差北部の乙部(おとべ),東は汐首岬近くの石崎辺りまで伸張,これに伴い亀田番所が成立した。寛政10年の幕府巡見使の巡検範囲が,乙部の瀬茂内から東の潮泊・石崎までとなっているのは,当時の松前地(和人地)の領域を裏付けるものといえよう。寛文9年頃には,熊石の関内に番所が設置され,西部境界はこの地まで拡大したが,和人の居住は薄く,慶長年間のジョン・セーリスの報告に「マチマ(福山)のほかに定住地若しくは市場はない」とある。寛文年間頃も東在の亀田(200軒余)・福島(120軒余),西在の上ノ国(140~150軒余)が大集落として存在する程度であった。松前地と蝦夷地は東西2つの番所により区画された。「西は熊石,東は亀田両所に関所ありて,是より外は蝦夷地とす。此所にて往来を改む,故なく蝦夷地へ往来を禁ず」(北海随筆),「熊石番所……上ミ下モモ入ル番所にて,蝦夷地用向の者を改め通すなり,蝦夷人も此番所より,松前地に来る事ならず,日本の者も城下町奉行衆の切手なくては通行かなわず境也」(蝦夷国私記)とあるように,往来者はすべて厳しく吟味を受け,和人の蝦夷地定住は厳禁された。近世中期には和人の来住者(零細漁民)が海産物生産の担い手として急増,松前地内に定住するようになり,その多くは城下近在や,松前地境界近辺に小屋掛けして漁期に備えた。これにより東部で村落形成が進み,石崎以東への和人居住者が増加,天明年間頃には蝦夷地の内であった南端部の箱館六ケ場所の松前地化が促され,小安(おやす)場所に「戍楼」が設けられ,東部の境界は事実上小安に移動した。寛政12年には箱館六ケ場所(小安~野田追間)が「村並」に格上げされて,実質的には松前地の一部となり,以後幕末まで,西部では熊石村まで,東部では箱館付六ケ場所北端の野田追までが和人の居住地域として確定した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7008293