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稲生川
【いなおいがわ】


旧上北郡域に広がる三本木原一帯を潅漑する用水路。安政2年盛岡藩士新渡戸伝による三本木原開拓に伴って開削されたもので,相坂川(奥入瀬(おいらせ)川)を主な水源とする。相坂川と三本木原の標高差を克服するため,上流の法量(十和田湖町)付近の相坂川左岸に取水口を設け,2本の穴堰を掘削,途中相坂川支流の中里川・能ノ沢川の流水を合わせて三本木原に通水する。安政3年4月25日には鞍出山を掘り抜いて能ノ沢(十和田市)から矢神(同市)に至る一番穴堰約1,400間が貫通。同年10月17日には能ノ沢川の取入口が完成した。安政3年末には伝が盛岡藩の勘定奉行として江戸に上り,その後を嫡子十次郎が引き継いだ。安政5年法量・段ノ岩(十和田湖町)間約900間の二番穴堰が完成,矢神・三本木間3,400間の水路の開削も終了し,引き続いて三本木・高清水(十和田市)間の陸堰の工事が開始された。同年4月24日の試験通水を経て翌6年5月4日には,能ノ沢川の水門を開いて通水し,用水は三本木を経て折茂(六戸町)付近にまで達した。万延元年には15代藩主南部利剛が三本木を巡視し,のちに利剛により稲生川と命名された。慶応元年に至り,検分の結果,草高は970余石とされ,伝による上水計画は一応の完成をみた(十和田市史)。十次郎はこれに引き続き,木崎野一帯の開墾を目ざす第2次上水計画に着手したが十次郎の死により中止された。明治17年三本木原の開拓を目的に,三本木共立開墾会社が設立され,同29年三本木開墾株式会社と改称,開墾・植林・上水・分水の事業を実施した。明治39年までに稲生川を太平洋岸まで延長し支堰23kmを開削したが,力量不足により下流部では十分な開墾を行うことができなかった。大正11年には稲生川上流に稲生川普通水利組合,翌12年には下流に稲生耕地整理組合組織会が設立され,三本木開墾株式会社は,事業の一切を両者に引き継ぎ解散した(同前)。昭和13年第1時国営開墾事業が開始され,新たな取水口と導水トンネルの掘削を含む水路の改良・新設が行われ,同21年の第2次国営開墾事業を経て,同41年に完成した。これによって水田3,377ha・畑5,949haが造成され,467haの土地改良を含む受益戸数は,5,569戸に上った(同前)。稲生川は現在,正式には三本木原幹線水路と呼称される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7009992