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岩木川
【いわきがわ】


県の西部を流れる。岩木川水系の幹川。1級河川。流路延長102km・流域面積2,540km(^2)。白神産地の雁森岳を源流とし,上流部は北東流,弘前市西方で流路を北に変え,津軽平野を北流し十三湖に至り,日本海に注ぐ。流域面積は県内で最も広いが,流路延長は馬淵川142kmに次ぐ。岩木川水系の流域市町村は3市11町10村に及ぶが,幹川岩木川では,中津軽郡西目屋村・岩木町・相馬村・弘前市・南津軽郡藤崎町・北津軽郡板柳町・鶴田町・五所川原市・西津軽郡柏村・木造(きづくり)町・稲垣村・車力村・北津軽郡金木(かなぎ)町・中里町・市浦(しうら)村の2市7町6村である。支川の数も多く,県の河川調書によると1次支川は18川,2次支川は36川,3次支川は25川,4次支川は5川になっている。1次支川は,せばと川・相内(あいうち)川・山田川・今泉川・薄市(うすいち)川・鳥谷(とりや)川・旧十川・十川・旧大蜂(きゆうだいばち)川・大蜂川・後長根(うしろながね)川・平川・栩内(とちない)川・相馬川・蔵助沢(くらすけざわ)川・大秋(たいあき)川・平沢川・湯ノ沢川などがあり,2次支川の主なものとしては,旧十川の金木川・小田川・飯詰川・十川の浪岡川・本郷川,平川の浅瀬石川・土淵(つちぶち)川・三ツ目内(みつめない)川・虹貝川・津苅川などがある。岩木川と支川平川との合流点から下流を昔は大川と呼んでいた。「岩木川物語」によると「旧藩時代より昭和の初めまで平川合流点以下を大川と称し,明治に入って県費支弁の河川にはっきり,上流を岩木川,藤崎町地内平川合流点以下を大川と規定されていた。その解消は昭和10年の大洪水の結果,昭和11年10月22日相馬川合流点より下流十三湖まで河川法施行区域に変更,自然大川の名は消えた」とある。また,弘前市内を流れる当川は,天和2年までは2筋に分かれていた。1つは駒越方面を流れていた駒越川,他の1つは,茂森方面から新町に出て弘前城の下を通り紺屋町方面に流れていた樋ノ口川である。昭和25年から同26年まで建設省岩木川工事事務所長であった歌代吉高は岩木川を他の河川と比較し,その特殊性として,次の3点をあげている。1点は,水源から弘前市までの勾配が150分の1という急傾斜であり,それから急に緩やかとなって洪水量の大きい平川が合流し,流末部は全く平坦である。どの河川でも上流は急勾配で,下流が緩勾配であるのは普通であるが,岩木川の場合はそれが極端であること。2点は,春の湛水被害が大であること。3点は,南から北へ流れる川のため,春の融氷時期が上流部は早く,下流部が遅いこと。このため十三湖水戸口には氷層の山が築かれるとしている。当川の洪水については,古くは天文3年から近年では昭和52年まで120回以上の記録が残されている。洪水の時期は融雪期の4月と,豪雨による7~8月が大半を占めている。過去の主な記録としては,天文3年大水,永禄10年大水,寛永15年大洪水,前代未聞,慶長2年家屋流失,水死者出る。延宝8年水没,流家,水死33,同年流家79,水死36,牛馬89,宝暦8年堤切,流家278,水死65,天保元年二階堰決壊,水死39,明治16年水死,流家,土手決壊。昭和に入ってからも洪水は多く,昭和10年,同33年,同35年,同44年,同47年,同49年,同52年などが主なものである。特に,昭和10年と同33年の被害は甚大であった。水害防止のための河川改修工事は津軽4代藩主信政の頃から,堤防築造,屈曲整正を中心に手掛けられていた。明治に入ってからは本格的な調査が実施され,大正7年に10か年継続の直轄事業として改修工事が始まっている。その内容は,右岸は鶴田町から,左岸は弘前市から十三湖までの水路拡張,堤防の増改築,十三湖の水戸口に突堤の建設,支川十川の新川開削などで,いずれも水害防止のものである。昭和10年には大洪水のため計画の追加,継続年の延長が行われ,さらに昭和33年の大洪水では再び計画の変更をしている。その間昭和28年には目屋ダムの工事に着手し,同35年に完成している。当川に架けられた橋で最も古いものは慶長16年に樋ノ口川の先達の淵に架けられた先達大橋である。その後元和元年に石渡橋(現在の富士見橋の前身),明治17年に五所川原市の乾(いぬい)橋,鶴田町の保安橋,同23年には弘前市の岩木橋,板柳町の幡竜橋が架けられている。現在見られる主な橋は,弘前市悪戸の上岩木橋(橋長91m),同市駒越の岩木橋(橋長162m),同市浜ノ町の富士見橋(橋長189m),同市向外瀬の城北大橋(橋長234.82m),同市中崎の安東橋(橋長94.10m),板柳町の幡竜橋(橋長283m),鶴田町菖蒲川の保安橋(橋長23m),同町鶴田の鶴寿橋(橋長307m),五所川原市の乾橋(橋長346m),同市藻川の三好橋(橋長313m),金木町神原の神田橋(橋長372m),中里町の津軽大橋(橋長558m),市浦村の十三湖大橋(橋長234m)などがある。橋が少ない明治期までの対岸との交通は,渡しが利用されていた。元禄年間の河渡しについて「岩木川物語」には「大体が徒歩渡しが多く,船渡は十三渡しの外は平川では石川,境関,藤崎。岩木川では駒越,石渡くらいである」とある。明治14年の「県治一覧表」によると当川の渡船場は,弘前の駒越の渡し,板屋野木村(板柳)の板屋野木の渡し,同村小幡の小幡の渡し,鶴田村菖蒲川の菖蒲川の渡し,同村の鶴田の渡し,同村大巻の大巻の渡し,五所川原村の五所川原の渡し,中川村田川の赤堀の渡し,三好村藻川の藻川の渡し,金木村神原の神原の渡し,十三村の十三の渡しが記録されている。十三の渡しは昭和24年に県の管理となり,その渡船賃金は,歩行者15円・自転車10円・貨物自動車(荷積)300円・同空車200円・リヤカー(荷積)25円・同空車15円・牛馬30円であった。当川は内陸水運としても古くから利用されていた。特に中世には三津七湊の1つに数えられていた十三湊に通じることもあり,その役割も大きかった。芦萱・材木・木綿・穀物を十三湊に送り,木綿・荒物・紙類・瀬戸物などの日用品を運び込んでいた。当時の河港としては,浜ノ町(弘前市),藤崎・三世寺・板屋野木(板柳),湊(五所川原市),大泊(藻川),蒔田(金木町)などがあった。中でも板屋野木湊は大きく「津軽一統志」に「板屋野木湊は立木袋が河中に突出して,一大入江を為し,全く理想的の港潟であった。且つ昔は陸路運輸機関不備のため,専ら岩木川を利用せる時代であった関係上,常に河舟は五,六十艘も輻輳し,(中略)岩木川唯一の河港であった」とある。大正期までは舟運も盛んであったが,昭和期になり,自動車交通の発達で自然廃航している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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