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恐山
【おそれざん】


下北郡大畑町とむつ市とにまたがる,恐山火山を中心とする霊場の総称。古くは宇曽利山ともいい,全山の寺堂をまとめて菩提寺と称する。中心となっているのは地蔵堂で,本尊は慈覚大師円仁作と伝える地蔵菩薩。むつ市新町の曹洞宗円通寺が所管している。恐山火山の中央カルデラ内北側中央火口丘に,鶏頭山・地蔵山・剣山があり,その南側に地蔵堂を中心として諸堂が建つ。また古くは百三十六地獄といわれた硫気孔,それに60余の温泉源がある。カルデラの南側には,直径約2kmの宇曽利山湖が広がり,カルデラをとり囲んで大尽山・小尽山などの外輪山7峰がそびえる。また外輪山の南方に接して,寄生火山である釜臥山があり,恐山の奥院と称している。死者の魂が集まる山として全国的に知られ,日本三大霊場の1つともいわれている。文化7年再刊の「奥州南部宇曽利山釜臥山菩提寺地蔵大士略縁起」によれば(山岳宗教史研究叢書17),慈覚大師円仁は中国での修行中に受けた・夢告をたよりに,京都の東方30日余の地にある霊山を求めて奥州に至り,釜臥山にこもった。ある時鵜が羽を翻して北方の山上にとび去るのを見て,そこに尋常ならざる霊地を発見。地蔵菩薩1体を刻み,堂を建立してこれを納めて菩提寺と名付け,念持した山の名をとって山号を釜臥山としたという。「国誌」によれば,鵜が両羽をそり返らせて円仁に霊地をしらせたので,山の名が宇曽利山になったという。円仁開山の伝説は東北地方に多く,当山もその1つ。元禄11年に江戸東叡山寛永寺が,恐山は慈覚大師の開創だから天台宗の管轄に入るべきだと主張し(御領分社堂),また正徳年間刊の「和漢三才図会」に慈覚大師が護摩を執行した石壇のことが記されているなど,円仁開山の伝説はすでに17世紀までに成立していた。「和漢三才図会」には,竹内与兵衛という商人が唐銅で弥陀・大日・薬師の三尊を造像し,当山に安置したとある。これは今日みられる当山の地蔵信仰が17世紀ごろにはまだ成立していなかったことを示している。「東北大平記」には,康正年間に「峰の寺」別当で修験の大締が,蠣崎の乱で蠣崎氏に味方したため,乱後寺が破却されたと見える。「田名部町誌」によれば,恐山地蔵堂は中世までは「恐居山金剛念寺」,俗称「峰の寺」が支配していたというから中世まで当山には修験寺があったことになるが確証はない。一方円通寺の寺伝では,享禄3年円通寺開山聚覚が菩提寺を再興したという。以上のように中世から近世初頭にかけての恐山については未詳な点が多い。元禄年間,円通寺は天台宗蓮華寺などと菩提寺の支配をめぐって争っており,この時円通寺は「釜臥山大明神」を同寺に預ける旨の綸旨を頂いていると主張。蓮華寺勢力を退けて菩提寺および恐山全体の支配を確立した(御領分社堂)。釜臥山大明神は釜臥山の神であり,現在山上にある釜臥神社のことである。同山腹には観音堂があり,また同登山口にはむつ市側に兵主神社,大畑町側に光主神社がある。宝暦年間の御領分社堂に「宇曽利正一位借大明神〈三問四面板ふき〉円通寺持」とあるのも釜臥大明神のことで,このころは円通寺持となっていた。その後文久元年の宇曽利山奥院堂では,同社は大意院の支配に移っており,毎年5月から8月までに行われる釜臥山登山も大覚院が執行している(大覚院文書)。大覚院は本山派修験で,現在むつ市新町にある熊野神社別当。円通寺に隣りあっている。中世末から近世初頭ごろに開創され,江戸中期頃には下北半島の西側一帯にある修験を統率するほど勢力を伸ばした。このような大覚院の成長は,円通寺と協調して恐山信仰を積極的に展開していった点にあると考えられ,円通寺が地蔵堂を支配運営するのに対して,大覚院は釜臥山に対する山岳信仰を拡大普及し,ここに釜臥山をも含む恐山信仰が確立された。その時期は江戸後期であり,円通寺が「奥州南部宇曽利山釜臥山菩提寺地蔵大士略縁起」を刊行した文化7年ごろがその画期といえる。天明8年と天保4年に,田名部から恐山に至る参道の普請を行い,また天保14年にも大畑から正津川沿いに登る道の整備を藩に願い出ているが,これは「諸国参詣之者相増」したためであった(大畑町誌)。安政4年,全国の廻船問屋が協力して地蔵堂などを再建(恐山地蔵尊本堂庫裡再建簿,岩手県盛岡市中央公民館蔵)。弘化元年から文久元年にかけて地蔵堂前の40基の常夜灯が,やはり諸国廻船問屋によって寄進されている。恐山や釜臥山が,単に死者供養の山としてだけでなく,このころには航海安全などを祈る霊場ともなっていたことを示している。「国誌」の地蔵堂の項には,地蔵堂のほかに本堂・庫裡・食堂・無漏館・耆宿寮・山門・平門などの建物と,不動尊・薬師如来・稲荷・慈覚大師・五智如来などの石造物,極楽浜・西(賽)の河原,数々の温泉と24個所の地獄(硫気孔)が書きあげられていて,幕末・明治頃の恐山の有り様を伝えている。明治期に入り,奥院釜臥大明神は本尊釈迦如来を円通寺に移して仏色をとり払い,地蔵堂はそれまでどおり円通寺の管轄とされた。江戸期に行われるようになった地獄廻りには多数の参詣者が訪れ(東奥沿海日誌),死者の霊が集まる山としての恐山信仰は急速に広まっていった。恐山の霊場としての特徴は,女人の登山を全面的に認め勧めている点にある。奥院の釜臥山が山岳修験の通例に従って女人禁制であったため,今日では登拝山かけの習慣が著しく後退しているのに対し,恐山の毎年7月20日から24日にかけて行われる大祭が戦後になってもますます盛んになっている原因はここにある。大正期ごろ,それまで津軽・南部の各地で活躍していた「いたこ」が,恐山でも死者の口寄せを行うようになった。戦後,全国的にそれが報道されるようになったのをきっかけとして,恐山には全国から参詣者が訪れるようになり,県内のいたこもここに集まるのが慣例となっている。7月の大祭以外に,下北一帯の村々では老人たちが地蔵講を組織して,春秋の2度の例祭に地蔵堂に参詣する習わしがあり,恐山信仰の古形を伝えている。恐山への登り口は,田名部(たなぶ)・川内・大湊・大畑の4ルートがありいずれも約3里半余。「和漢三才図会」には,大畑からの登山口が紹介されていて,正津川沿いに登るのが古い参道であった。江戸後期以降は田名部からの道が最もよく利用されている。「田名部町誌」によれば,田名部よりの参道の両側には多数の石地蔵と,1町ごとに路程を示す130基余りの丁塚が建てられていた。丁塚は,文久2年の開山一千年大供養に先立つ安政年間に,近江国日吉辰巳屋松兵衛や松前藩福山の天屋善兵衛ら全国の商人によって建立寄進されたもので,現在はそのうち10数基が残っている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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