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三本木原
【さんぼんぎはら】


三本木平・三本木原台地ともいう。八甲田山の東に広がる台地。十和田火山の噴出物に覆われた洪積台地で,南は奥入瀬(おいらせ)川,北は七戸川に限られ,東は太平洋に面している。東西約26km・南北約15km。また,馬淵(まべち)川から六ケ所台地に至る,東西約25km・南北約60kmの地域を三本木原台地と総称することもある。第三系の砂岩層の上に野辺地層がのり,その上に段丘堆積物および火山灰が堆積している。台地は,およそ5つの段丘面に区分され,いずれも新旧2層の三本木火山灰層に覆われる。高位面として,七百面・天狗平面が台地中央部に分布し,その周囲に中位面として高館面が広がる。その端に低位面として八戸面が見られ,台地西部には三本木面が発達する。三本木面は,十和田浮石流に由来する2次堆積面で,十和田市東部で一部高位面を覆い,東に傾斜して上北郡六戸町付近で沖積面に没している。北部には砂土路(さどろ)川・姉沼川が流れ,台地を樹枝状に開析している。気候は東日本気候区に属し,冬季には晴天が続き積雪も少ないが,寒さは厳しい。また初夏にはやませ(北東風)の影響を受け,時には冷害に見舞われることがある。近世までは広漠たる原野で,寛政9年刊の「東遊記」に「七の戸辺に三本木台という野原あり。只平々たる芝原にて,四方目にさわるものなし。此原東西凡そ二日路,南北半日路程にありと云う。其間に人家もなく樹木も一本も見えず,実に無役の野原也」と記される。台地の東部には盛岡藩の藩営九牧の1つ木崎野があり,藩営牧場中最大の規模を誇った。安政年間には盛岡藩士新渡戸伝・十次郎による開拓事業が開始され,奥入瀬川を水源とする用水路(稲生川)の開削と三本木の町割りが進められた。明治17年には三本木開墾会社が設立され,昭和4年の国営開墾事業に引き継がれた。事業は戦後の再着工を経て,昭和38年に完成し,開田2,500ha,開畑6,400haに達した。明治初年の「国誌」には「安政に開墾の業務を創め,年々新開ありて原上稍畦の容ありしか,明治の初斗南藩の士属大に維新を奉従し,広く耕し,新村を数処に構架し今は一大邑となり,広衍の田圃となれり」とある。明治17年三本木村(十和田市)に軍馬育成所(のちの軍馬補充部三本木支部)が開設され,のちには三本木の馬市は日本一と称された。第2次大戦後は馬産から酪農・畜産に転換したが,一部では競争馬の育成が続けられている。昭和30年代には,県の指導により畑作収入の向上を目指して,ビート栽培が導入された。昭和37年には,六戸町にフジ製糖青森工場が進出したが,市況の低迷により,同42年工場が閉鎖され,ビート栽培は失敗した。現在は米作を中心に,ナガイモ・ニンニクをはじめとする畑作物の特産地の形成が進められている。台地の西部にある十和田市は,新渡戸伝の構想による方格状道路網を有する計画都市で,国道4号・同45号・同102号をはじめ,多くの道路が交錯する交通の要衝として上十三(かみとおさん)地区の中心都市となっている。市街地の北部を流れる稲生川(三本木原幹線水路)は,台地の中央を東流して太平洋に達する。台地の東部には三沢市があり,国鉄東北本線から十和田観光電鉄が分岐し,十和田市と結ぶ。三沢市街に隣接して三沢空港があり,本県の空の玄関となっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7011109