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外浜
【そとがはま】


旧国名:陸奥

(中世)平安末期~戦国期に見える広域地名。外ケ浜とも書き,外ノ浜ともいう。津軽半島のうち陸奥湾に面した地域を指す汎称で,現在の青森市と東津軽郡一帯にあたる。津軽の平賀・鼻和・田舎の3群は12世紀初頭に成立したと推定されるが,この3郡以外に西海岸と陸奥湾沿岸の地域には郡が設置されず,西浜と外浜という広域称で呼ばれた。外浜の地名由来については,これはもともと「率土之浜」であり,「詩経」の「普天之下,無非王土,率土之浜,無非王臣」の句から起こったもので,王土のつきるはてを意味するという説(地名辞書),京都の朝廷の「クニノウチ」の拡大運動が行き着いた限界点を意味するという説,津軽と糠部(ぬかのぶ)の外なる浜の意とする説(青森市沿革史),内浜である西海岸からみて外になる地域であることによるという説などがある。西行の「山家集」に「陸奥の奥のゆかしくぞおもほゆる壺の碑そとの浜風」と詠まれ,平安末期には歌枕の地として知られ,その後多くの歌に詠まれている。したがって12世紀の前半には,すでに都人の間では陸奥のさらにその奥に「外の浜」が存在することが知られるようになっていた。「吾妻鏡」文治5年9月17日条に載せられた中尊寺衆徒ら注進の寺塔己下注文によれば,平泉藤原氏初代の清衡が,白河関から外浜にいたる道の1町毎に金色阿弥生陀像を画いた笠卒都婆を立てさせたという。白河と外浜とは平泉藤原氏の支配領域の南限と北限を指すものと思われる。文治5年奥州合戦ののち,当地域は源頼朝の支配下に入った。これに対して大河兼任は反乱を起こしたが,文治6年2月12日外浜と糠部の間「多宇末井之梯」で討滅された。外浜は鎌倉初期から北条氏得宗領であったと推定され,安藤(東)氏が北条氏の地頭代として外浜に勢力を張っていたと思われる。ところで,「曽我物語」巻5に「当時世東安久留・津軽・外浜,西壱岐・対馬,南土佐波,北佐渡北」,同書巻3に「君……左御足践奥州外浜,右御足践西国鬼界嶋」と見え,鎌倉殿の軍事・警察力の及ぶ範囲について述べているが,東の境界は外浜であったという。外浜の北に位置する夷島は鎌倉期には流刑地であり,そのため外浜は鎌倉期においては怪異の出現する場であると同時に怪異を追放する場所でもあった,「吾妻鏡」建久4年7月24日条によれば,9本の足のある馬が怪異なるものとして外浜に追放され,「曽我物語」巻1によれば,鬼王安日が国家に仇をなす悪鬼として神武天皇によって外浜に追放されたという。そこには外浜が中世国家の東限という認識があった。下って,天正11年と推定される4月12日の小早川隆景宛羽柴秀吉書状写に「自播州西之事は不存,於東は津軽・合浦・外浜迄茂我等鑓先ニ可相堪様依無之,悉羽柴応鞭先明隙候間可御心安候」と見え,秀吉も日本の東限を外浜と意識していたことが明らかである(毛利伊豆文書/萩藩閥閲録1)。外浜は中世を通じて日本の東の境界となっていた。鎌倉末期元享2年から嘉暦3年にかけ安藤氏は一族の間に津軽大乱といわれる騒動を起こした。「諏訪大明神絵詞」によれば,安藤季久と安藤季長は外浜内末部と西浜折曽関に城郭を構えて争ったという(続群3下)。内末部に城郭を構えたのは安藤季久とみられる。元弘3年から建武2年頃の足利尊氏・同直義所領目録に「奥州外浜〈同(泰家)〉」と見え,鎌倉幕府滅亡時に北条泰家が地頭職にあった外浜は没収され,建武新政府は足利尊氏に充行っている(比志島文書/神奈川県史)。そして,これに伴ない外浜の各地における北条氏代官の所領も没収されて,建武新政府側の人物に充行われることになった。建武2年正月26日野尻郷が工藤貞行(新渡戸文書/岩手県中世文書上),同年3月10日内摩部郷と湖方・中沢・真板などの村が南部師行とその一族に充行われている(遠野南部文書/岩手県中世文書上)。その後,工藤貞行の所領は南部信政に嫁した加伊寿御前を経て根城南部氏に伝領された。永享4年には安藤氏は南部氏により蝦夷島に追われ,安東師季は応仁2年2月28日,熊野那智大社に「津軽外浜・宇楚里・鶴子遍地」回復の願文を捧げたが実現されなかった(米良文書)。南部氏は津軽郡代を置いたが,「南部根元記」によれば外浜の堤ケ浦の堤弾正光康を任じたという。また,永正11年に記された「余目氏旧記」によれば,府中の守護神,同時に奥州一宮たる塩釜神社の神領が,外浜に設定されていたことが知られる(続々群4)。天文年間の津軽郡中名字には「東ノ卒都ノ浜」とある。これは外浜と同様の地を指し,その中に23の地名が記されている(津軽一統志/県史1)。現東津軽郡と青森市を含む地域をよぶ。外浜と北浜の接合点は合浦と称され,現在の青森市合浦がこれに当たる。外浜は天正13年大浦(津軽)為信の支配下となった。天正18年大浦為信は豊臣秀吉から津軽三郡と合浦一円を安堵され,津軽氏を名乗った(津軽一統志/新遍青森県叢書1)。これに記された合浦は外浜と北浜にあたるとみられる。江戸期には,正保国絵図によれば,外浜の地域は田舎郡に包摂されている。ただし,江戸期にも青森湾沿岸の広域地名として外ケ浜の呼称がある。そして,津軽半島東部を外ケ浜上磯,浅虫以東を外ケ浜下磯と称し,この両地名は貞享4年まで弘前藩の行政単位である遣としても存在した。




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「角川日本地名大辞典」
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