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南部
【なんぶ】


旧国名:陸奥

(中世~近世)戦国期~江戸期の南部氏領全域を通称する広域地名。現在でも旧盛岡藩(南部氏)領の地域(青森県・岩手県)が南部と称され,本県でも津軽地方に対して県東部が南部地方と称されている。南部の地名は南部氏に由来するが,南部氏の姓はその本貫地甲斐国巨摩郡南部にちなむ。南部氏は文治5年奥州合戦に参加し,その功績により光行が源頼朝から糠部(ぬかのぶ)郡を賜ったというが確証はなく,鎌倉期に南部氏が糠部郡内に所領を持っていたことを示す史料はみられない。南北朝期の内乱を通じて南部氏一族は終始南朝方として活躍した。中でも,建武政権下で糠部郡の奉行所の国代として同郡を管領した師行は,根城南部氏4代にあたり,糠部郡や津軽において北朝方と戦いながら所領を拡大した。南部氏の本家にあたる三戸南部氏の動向は明らかではないが,南北朝期に北朝勢力の強い甲斐南部の所領は維持できず,その本拠を糠部郡に移したという。一族は糠部郡一体に蟠踞し,南北朝後期の応安3年の銘をもつ岩手県宮古市山口の黒森神社の棟札には「当(閉伊)郡地頭南部光禄・南部伊予守信長」とあり(岩手県金石志),その勢力は閉伊郡まで及んでいたようである。室町・戦国期には,三戸・八戸・九戸等の諸家が分立しながら発展した。当初勢力を持ったのは根城(八戸)南部氏であり,室町前期には当郡一帯を支配するようになり,さらに康正3年に終結する蛎崎の乱ののち,宇曽利郷など下北半島の地も支配下においたと考えられる。その後,天文年間以降根城南部氏は急速に勢力が衰え,三戸南部氏が台頭するようになり,近隣の一族・他氏を圧倒し,戦国大名への道を歩んだ。広域称としての「南部」は戦国期から見え始めるが,早い例としては「蜷川親俊日記」天文8年閏6月24日条に「奥州南部商人左藤掃部時吉」と見え,南部氏が戦国大名として領国支配を確立するに従って,このような称が使用され始めたのであろう。南部晴政は,秋田の仙北へ進出し,岩手郡を手中にし,さらに斯波(しわ)郡の郡主斯波氏と対決することになった。晴政の養子信直は晴政の死後,天正10年一族の協議の結果,三戸南部家を継いだ。信直が相続したときの領域は,津軽の一部,糠部郡の一部,鹿角郡・岩手郡・斯波郡に及んでいた。しかし,津軽の一部,糠部の一部には根城南部氏領があり,三戸南部氏の反対派の中心たる九戸政実とその一党が九戸・二戸・八戸・七戸の一部を領するという複雑な様相を呈していた。また,津軽は天正18年には大浦(津軽)為信の支配下となり,南部氏はその支配権を失った。南部信直は,前田利家を通じて豊臣秀吉と結び,天正16年には斯波氏を滅ぼし,天正18年7月27日には「南部内七郡」の支配を豊臣秀吉から認められた(盛岡南部文書/岩手県中世文書下)。この「南部内七郡」については,和賀・稗貫(ひえぬき)・紫波・岩手・閉伊・鹿角・糠部の7郡とする説と北・三戸・二戸・九戸・閉伊・岩手・鹿角の7郡とする説があるが,当時糠部郡が北・三戸・二戸・九戸の4郡に分割されていないことなどから,前者の説が有力である。この後,天正19年には九戸政実の乱を鎮定し,領内の反対派を一掃し,名実ともに南部の領主となった信直は,天正20年世継の利直に三戸城の置き,自らは九戸政実の旧居,九戸城に本拠を移し,城名も福岡城と改めた。そして,慶長3年から岩手郡不来方(こずかた)城の修築に着手し,同4年居城をこの盛岡の地に移し,江戸期の盛岡藩が成立する。江戸幕府からの領知目録は寛永11年徳川家光から与えられ,陸奥国のうち北・三戸・二戸・九戸・鹿角・閉伊・岩手・紫波・稗貫・和賀の10郡,合計10万石を領有した。このうち北・三戸の2郡は現青森県,鹿角郡は現秋田県,他の諸郡は現岩手県に属す。のち寛文4年藩主重直が嗣子を定めないまま死去したため,幕府は所領をいったん没収したのち,その弟重信に8万石を与えて盛岡藩を相続させ,同じく弟直房に2万石を与えて新たに八戸藩を創設させた。盛岡藩は天和3年新田分2万石を加増させて10万石になり,文化5年には所領はそのままで20万石に格上げされた。なお,すでに寛永11年の領内郷村目録では内高20万石余とされていた。盛岡藩の名は居所盛岡にちなむものだが,中世以来の名族南部氏にちなんで「南部の国」「南部領」と呼ばれることが多く,現在でも南部藩と呼ぶことが多い。このような南部の地も,明治維新の変動を経て岩手県を中心に青森県・秋田県の3県に分割され,「南部の国」や「南部領」「南部藩」は消滅したが,現在でも南部駒・南部鉄器・南部杜氏など旧南部地域の特産が伝統を語るときには,しばしば「南部」の名が冠されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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