100辞書・辞典一括検索

JLogos

8

西浜
【にしはま】


旧国名:陸奥

(中世)鎌倉期から見える広域地名。津軽地方のうち日本海に面した西海岸地方を指す汎称。津軽の平賀・鼻和・田舎の3郡は12世紀に見えるが,この3郡以外に西海岸地方と陸奥湾沿岸の地域には郡が設置されず,西浜と外浜という広域称で呼ばれた。元徳2年6月14日の安藤宗季譲状に「ゆつりわたす五郎太郎たかすゑに,みちのくにつかるにしのはま〈せきあつまゑをのそく〉事」とあるのが初見(新渡戸文書/岩手県中世文書上)。この譲状では,安藤宗季は得宗被官として同地の地頭代職に補任されており,子の高季に同地のうち関・阿曽米を除き譲渡した。安藤氏は元享2年から嘉暦3年にかけて一族の間に津軽大乱といわれる騒動を起こしたが,「諏訪大明神絵詞」によれば,安藤季久と安藤季長は外浜内末部と西浜折曽関に城郭を構えて争ったという(続群3下)。折曽関に城郭を構えたのは安藤季長とみられる。嘉暦3年10月ようやく和議が成立してこの乱はおさまった(北条九代記)。南北朝期にも当地一帯は安藤氏の支配下にあり,建武2年閏10月29日安藤高季は北畠顕家から西浜の地頭代職を安堵されている(新渡戸文書/岩手県中世文書上)。安藤氏の拠点である十三湊は重要な湊として栄えたが,安藤氏は永享4年あるいは嘉吉3年に三戸南部氏により十三湊を追われた。その後は,南部氏の津軽郡代の下に支配されたと思われる。天文年間の津軽郡中名字には西浜は見えず,その地域は同史料に見える馬郡・江流末郡,鼻和郡西部にあたる(津軽一統志/県史1)。戦国期には南部氏の支配下にあったが,次第に大浦氏が台頭した。大浦光信は延徳3年種里(現鰺ケ沢(あじがさわ)町)を居城とし,翌明応元年その北方に赤石城(同前)を築き,文亀2年大浦氏は大浦城(現岩木町)を築き鼻和郡に進出した。天正18年大浦為信は豊臣秀吉から津軽三郡と合浦一円を安堵され,津軽氏を名乗ることになった(津軽一統志/新編青森県叢書1)。なお,西浜という地域名称は江戸期以降も使用された。そして,西浜のうち,上方に近い深浦以南が上磯,上方に遠い七里長浜から小泊にかけては下磯と称され,その接合点にあたる鰺ケ沢は合浦(がつぽ)と称された。西浜の地は,現在は西津軽郡と北津軽郡のほぼ全域が含まれる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7012242