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馬淵川
【まべちがわ】


岩手県葛巻町と下閉伊郡岩泉町の境界の袖山(1,215m)に源を発し,本県南東部を流れる川。馬淵川水系の幹川。1級河川。流路延長142km・流域面積2,050km(^2)。本県では三戸郡三戸町を北流したのち,流路を東に変え,南部町―名川町―福地村を経て,八戸市で太平洋に注ぐ。下流の八戸市では大橋川・大川とも称したが,現在この名称は使われていない。最上流部は初め南東に流れ,葛巻と岩泉の町界の国境峠北麓でU字形に方向を転じ北西に流路を変える。葛巻町の盆地で南方からの外川川・山形川を合したあと,小鳥谷(こずや)までの間は古期岩類を刻む典型的な穿入蛇行で,両岸の絶壁は見事な景観となっている。小鳥谷の小盆地に入る手前の両岸は姉帯珪化木地帯と呼ばれ,新生代新第三紀層中に多数の珪化木が埋もれている。小鳥谷で南方からの平糠(ひらぬか)川を合したあと,一戸の盆地を北流,一戸町北部鳥越の北の曲流部で馬淵川最大の支流の安比(あつぴ)川が西方から合流する。合流点のやや下流から二戸市街地までの東岸約1kmは新第三紀層からなる高さ100mの大絶壁で馬仙(ばせん)峡と呼ばれ,折爪馬仙峡県立自然公園(岩手県)となっている。馬仙峡の出口から間もなくの二戸市街地では東から白鳥川が合流するが,この付近から北方の金田一付近までの細長い谷底平野部でも河岸は数mから30mの断崖をなしている。白鳥川合流点のすぐ南東のシラス台地である福岡段丘上には九戸城跡がある。天正19年,九戸政実はこの険を頼みに豊臣秀吉の派遣軍10万に抗した。一戸・二戸盆地とその周辺の新第三紀層は海棲貝化石を豊富に含むことから東北地方表日本川の新第三系模式地の1つとなっており,特に二戸市金田一・湯田温泉付近は著名である。同所では北太平洋沿岸特産のバクに近縁な絶滅哺乳動物デスモスチルスや,珍しい亀化石などを産出している。また,これら盆地の数段にわたる河岸段丘や福岡段丘上には,縄文時代から奈良・平安期にかけての遺跡が数多く存在する。金田一北部から三戸郡三戸町梅内までは,名久井岳西側を刻んで,流跡に沿う距離でほぼ14kmにわたり複雑に屈曲する穿入曲流となり,三戸の盆地に入って西から熊原川・猿辺川が合流する。江戸期には八戸から当川を通って熊原川まで舟運があった。熊原川との合流点の南側にそそり立つ標高120mの城山には,三戸南部氏の居城であった三戸城跡があり,現在はサクラの名所として,またよく整備された公園として人々の憩いの場となっている。国鉄東北本線諏訪の平駅付近の狭隘部を抜けて名川町に入ると南から如来堂川が合流し,福地村法師岡までの間は狭い河岸平野と河岸段丘の間を緩やかに蛇行する。法師岡と八戸市櫛引の間は再び穿入曲流となり,両岸は安山岩や火山砕屑岩類の絶壁をつくる。ここから先は八戸湾の河口まで沖積平野の中を緩流し,途中で西から浅水川が合流する。流域は年平均降水量1,100~1,200mmと少なく,最下流に開ける低地帯を除けば河岸平野が狭く水田の面積が少ないため,潅漑用水としての取水量が少ないので流量が極端に増減することがなく,広い川原が発達しない。もともとの河口は南方からの新井田川と合流して海に注いでいた。江戸期には洪水があると河口の位置が変わり,新井田川(河口近くは湊川と呼ばれる)を根拠とする漁船の入港が困難になることがあった。昭和31年,新水路が掘られて当川と新井田川は分離。馬淵川の以前の流路は第一工業港となり,海と当川の新水路に挟まれた陸地は通称三角地帯と呼ばれるようになった。ここには昭和33年に東北電力八戸火力発電所が建設され,八戸市が臨海工業都市として発展するきっかけとなった。当川の豊富な水は八戸市民の水道用水の1つとして取水されているほか,工業用水としても利用されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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