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流霰道
【ながれしぐれみち】


平安初期に見える道名。北奥北羽連絡路。「三代実録」元慶2年10月12日条に見える。ただし現行本には「流霞道」とあるが,霞は霰の誤写と考えられる。元慶の乱が起こると,朝廷では藤原保則を出羽権守に任じてその鎮定に当たらせるとともに,小野春風を鎮守将軍に,坂上好蔭を陸奥権介に特任して,保則を助けて平定のことに当たらせた。この両人が陸奥国軍を引き連れて秋田城に赴いた「陸奥路」の言いかえに「流霞道」(流霰道)という呼称が用いられている。すなわち同書元慶2年8月4日条には,「春風・好蔭等,陸奥路を取りて,上津野(かみつの)村に入る」とある。ところが,10月12日条には「陸奥権介従五位下坂上大宿禰好蔭,兵二千人を率いて,流霞(霰)道より秋田営に至る」とある。これにより「流霰道」というのが,上津野経由秋田城行の陸奥路について言われていたことがわかる。これは,胆沢にあった鎮守府を発し,徳丹(とくたん)城(紫波郡矢巾町)を経て,七時雨(ななしぐれ)山のふもとを通って,岩手・二戸郡境を越え,米代川沿いに鹿角―大館―能代を経て秋田城にかかる道を指したことがわかる。七時雨は,その流霰の転訛と考えられる。流は古代の荒地・夷地の意味,「しぐれ」は過ぐるで通過のこと,すなわち,夷地の中を通過する官道の意味で流霰道であったと解される。徳丹城から北,岩手より糠部(二戸)に入る郡境付近が,その国境と考えられていたので,これにちなむ七時雨山の名が,その郡境に残されたものである。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7015587