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閉伊村
【へいむら】


旧国名:陸奥

(古代)奈良期~平安期に見える広域地名。後世の閉伊郡に当たる地域の古称。蝦夷村の1つ。閇村・幣伊村・弊伊村さまざまに書かれる。古代蝦夷は,かなり広い範囲にわたる政治村落を営んで首長をいただき,おのずからなる国を形成していた。それが,政府側で「村」として把握されている。伊治村・斯波村みなこの種類である。閉伊村はそのどれにもまして,いっそう広大な広がりを持ち,政府軍の征服・開拓も,その南より一部にとどまったために,ついにここに建郡することができず,一時,限られた区域を権郡(ごんぐん)(かりの郡)扱いするにとどまった。閉伊村が最も早く見えるのは,「続日本紀」霊亀元年10月29日条である。この時,蝦夷の須賀君古麻比留という者が,長い間国府に貢上してきた昆布の献上の労を省くために「閇村に於て,便りに(便宜)郡家を建て,百姓に同じくせん」と願って許されたとある。現在,宮古市に須賀の小地名が散見され,昆布の貢上は海寄りの地でなければならないところから,この時の「閉権郡家」の所在地を宮古付近と考えるのが一般的である。宮古の地名も,あるいは「閉伊宮処(みやこ)」の意味で,閉伊郡家にちなむものであったかもしれない。この後,閉伊村のことはしばらく出ないが,弘仁2年12月13日の宣命によれば,坂上田村麻呂は「遠閉伊村」を極めて征討したが,遺族の追討までいかなかったとして,この年,文室綿麻呂の爾薩体(にさつたい)・閉伊2村の掃討戦になったようにのべている。だとすると,延暦13年ないし同20年の胆沢(いさわ)・斯波(しわ)方面の田村麻呂遠征は,遠閉伊(閉伊の奥深く)まで及んでいたことになる。弘仁2年,文室綿麻呂は征夷将軍として,奥羽両国2万の軍を興し,爾薩体・閉伊2村の蝦夷を討ったのであるが,これは,田村麻呂の残したところを引きついで,北蝦夷経営戦に終止符をうつものであった。爾薩体は二戸市に現在も仁左平の地名を残し,広く糠部(ぬかのぶ)一帯にわたった地名,この時の閉伊は,下閉伊から九戸寄りの青森県よりに重点があったかと考えられる。今日,二戸市方面で,堀野遺跡中心に知られてきている古代竪穴住居址群は,こうして始まった北の開拓のあとかと考えられる。この閉伊村経営は,11世紀半ば,源頼俊の「閉伊七村山徒征討」まで続いて中世に至る。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7016026