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阿武隈川
【あぶくまがわ】


県南部を流れる川名。福島県白河市西方那須火山帯の三本槍岳東麓に源を発し白河・須賀川・郡山・福島を経て,福島・宮城県境の阿武隈丘陵を横断,峡谷となって宮城県伊具郡に入り,角田(かくだ)・岩沼を経て亘理(わたり)郡亘理町荒浜において仙台湾に注ぐ。全長196km。北上川に次いで東北第2の大河である。西に奥羽山脈,東に阿武隈丘陵を分けてその中央を南から北へ貫流,福島県の母なる大河といってよい。古来から仙道ないし中通りと称されてきた福島県中央平野地帯は,この阿武隈縦谷平野の南北に盆地を連ねた平地列をさすのである。福島県中通りの主要都市は,この川が串刺しするように貫流して,それらをすべて「阿武隈河川都市群」に結び合わせている。すなわち南より白河市・須賀川市・郡山市・二本松市・福島市。阿武隈川が福島県の中心都市を興したともいえる。さらに宮城県に入って,その下流付近に広大な平野を興し,北から南流する北上川下流域と相まって,宮城県の地形を定める一要因にもなっている。事実,この阿武隈縦谷平野・仙台平野・北上縦谷平野は一本に結ばれて盛岡・白河構造線と呼ばれ,太平洋側東北の基本地形を定める地質構造をなしている。阿武隈川は,古くはアブクマ川でなく,逢隈川=アフクマ川と呼ばれていたと思われる。「三代実録」貞観5年10月29日条に「阿福麻水神」とあるのは「阿武隈河伯」の意味であるが,「阿福麻」はアフクマだからである。「延喜式」神名帳に載る式内社としては「阿福河伯神社」とあるが,この「阿福河伯」は「阿福麻河伯」の「麻」が脱落したものであろう。この式内社阿福麻河伯神社の所在すると伝えられるのは,宮城県亘理郡亘理町逢隈(おうくま)の地である。逢隈の地名は「和名抄」にはないが,阿福麻河伯にちなむ名であることは疑いない。その逢隈が,奥羽山脈と阿武隈丘陵が東西から迫る間を縫って流れる意味であることも明らかである。したがって,逢隈の名は,福島県中通りを流れる上流・中流の地勢に基づくということができるが,その阿武隈河伯(水神)の鎮座する地が亘理郡なのは,この川を渡河する主要渡し場が亘理郡にあったことによっている。福島県中通りでは,河道は一直線に南北方向をとり,白河関を越えた東山道も,これと並行して北上,多賀城に向かった。しかし,宮城県に入った阿武隈川は,阿武隈丘陵の北を限って仙台湾に流入するために,丘陵東側沿いに福島県浜通りを北上した東海道は,亘理郡の地で,阿武隈川を渡河しなければならないことになる。亘理は曰理とも書くが,ワタリはおそらく「渡り」と考えるべきである。文治5年,源頼朝の平泉侵攻に際しては,東海道の大将軍になった千葉介常胤・八田知家らは,「逢隈湊(おうくまのみなと)を渡」って多賀国府に入城したと「吾妻鏡」にあるから,その阿武隈渡しというのは,渡船なども十分整備された内海港をなしていたと思われる。阿福麻河伯神社は,その逢隈渡り守護の神として,亘理郡にまつられたのである。古代陸奥国の成立を見ると,大化の改新の時「道奥国」として組織された範囲は,大まかにいうと,阿武隈川沿いの中通り地域と,阿武隈川によって北を限った浜通りの地域ということができる。すなわち阿武隈川に沿って陸奥国の経営を進め,阿武隈川によって第1次陸奥国を限ったのである。養老2年,石城(いわき)・石背(いわしろ)両国を陸奥国から分置したとき,石背国は信夫(しのぶ)郡(伊達郡を含む)以南の福島県中通り,石城国は亘理郡以南の福島県中心の浜通りであって,阿武隈川が貫流し,およびそれによって北を限られた地帯が,陸奥国でも1つのブロックをなす先進地帯であったことを示している。「古今集」大歌所御歌みちのくうたの最初に阿武隈の歌が置かれている。「あふくまにきり立ちくもりあけぬとも 君をばやらじまてばすべなし」おそらく逢隈湊近く,阿武隈の水が漫々と広がるあたり,朝もやが川面一面に立ちこめる明け方の恋歌であろう。阿武隈川の水運が大きく問題になるのは,近世に入って信達(しんだつ)地方(信夫・伊達郡地方)に大きな幕府領が生じてからである。豊臣秀吉の晩年,120万石の大封で会津に入封した上杉景勝は,関ケ原の役の結果,30万石に減封されて米沢に転封になったが,この段階では信達地域はその領内にあった。ところが4代綱勝が寛文4年後嗣を定めないまま急逝したため,米沢藩は15万石に減封,信達地方は米沢藩領から幕府領に編入替えとなる。そこでこの後,この信達地方の城米(じようまい)(幕府領米)を江戸に輸送するための水路として,阿武隈川が利用されることになり,そのための河川改修や水路整備が行われることになる。幕府は寛文11年,河村瑞賢に命じて,この城米輸送のための水路の改修・整備を行わせた。瑞賢のこの阿武隈川改修により,阿武隈川は,福島県中通りを江戸に結ぶ経済の道となり,河口荒浜からの江戸への海運は,仙台藩その他による東廻り海運をいっそう隆盛にした。河村瑞賢の改修は県境の阿武隈丘陵を通る難所は水路によらず,陸上駄送するという水陸両用のものであった。そこでこの不便を解消するために,仙台藩の艜(ひらた)(平田船)肝煎渡辺十右衛門が寛文12年,その改修に成功して,福島・桑折(こおり)から水沢・沼上(仙台藩領伊具郡)までは小鵜飼船で,ここからは艜船に積み替えて河口荒浜まで下げることになった。仙台藩の場合,阿武隈水運の統制のための番所を水沢と荒浜に置き,番所配下の艜肝煎を水沢・沼上・玉崎に置いた。また穀改所は水沢・丸森・玉崎・荒浜に置かれた。阿武隈川水運はこうして,荒浜~丸森間は50石積の艜船,丸森~福島間は小型の小鵜飼船が通じたが,福島~二本松間の舟行は不能で,二本松~石川には下り荷のみ可能な舟行があった。しかし,阿武隈川の水運は実質的に福島盆地から下流の水運であって,この水運は米沢藩なども利用した。明治になって安積(あさか)開墾が行われ,そのための一環として猪苗代(いなわしろ)湖から引水する安積疏水が実現し,その水路の水が阿武隈川に落とされることになって,阿武隈川の河川改修,その水上輸送が再び注目されるようになった。折しも野蒜(のびる)築港が進行中だったので,阿武隈水運を貞山運河で野蒜に結び,さらに野蒜からは北上運河で北上川に結び,阿武隈・北上両河の水上交通を一元化する計画もなされている。雄大な水のネット・ワークということができる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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