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河内
【かわうち】


旧国名:陸奥

(中世)室町期~戦国期に見られる地域の汎称。川内とも書く。仙北大崎五郡地帯。中世,南は鳴瀬川,北は迫(はさま)川によって画された盆地遊水地帯の諸郡,すなわち加美・志田・遠田(とおだ)・玉造(たまつくり)・栗原諸郡をこの名で総称。室町・戦国期の奥州探題大崎氏の大名としての領国支配がほぼこれと一致する。地名の由来は,淀(よど)川と大和川によって区画された大阪湾岸の地が河内国と呼ばれているのと同じく,宮城県北では,鳴瀬・江合(えあい)・迫の3川が一地区を画しているので,これにいだかれた地域の意味で「河内」と称した。「余目記録」に「留守七代目美作守家高の時,河内七郡には,渋谷・大掾(だいじよう)・泉田・四方田(しほうでん)とて,文治五年に当国に下り,外様に四頭一揆にて候しが,千葉衆たり。留守殿に五人一きをいたし,連判にのる」と見えている。これによれば,「河内」の総称のもとに7郡があったこと,そこには「河内四頭」で呼ばれる地頭たちがあって,四頭一揆をもって共同歩調をとっていたことがわかる。これについては,「伊達正統世次考」天文5年6月の条にも「稙宗(伊達),川内志田郡師山城に到」っての合戦についての考按があり,以下のように記されている。「渋谷・泉田・上形・狩野,是れを川内四頭と曰う。文治五年,頼朝卿泰衡(平泉藤原)を退治するの後,分かれて五郡二保を守る」「此の四頭,管領の指揮に従わず。之を京都に申請す。因りて斯波刑部大輔家兼を以て管領となす」「此の後,川内五郡と謂うは,亦大崎を謂うなり」。これにより「余目記録」に「河内七郡」としたのは「伊達正統世次考」に「五郡二保」としているものに当たり,加美・志田・遠田・玉造・栗原5郡に大谷・小田2保を加えたものであることがわかる。大谷・小田2保もそれぞれ黒川・遠田2郡に含めてとらえられるようになり,「河内五郡」という言い方になったもので,「河内五郡」が「大崎五郡」になってゆく。「河内四頭」にも「余目記録」と「伊達正統世次考」で相違があるのは,河内地方における勢力の交替にも関係していよう。戦国大名大崎領として固定するようになってからは,「伊達正統世次考」でも指摘しているように,大崎をもって呼ぶようになり,大崎五郡の呼称が一般化する。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7017352