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七北田川
【ななきたがわ】


泉・仙台・多賀城の3市を貫流する川名。泉ケ岳の東方斜面の沢水を集めて東流し,仙台市根白石(ねのしろいし)・福岡・朴沢(ほおさわ)・小角(おがく)・実沢(さねざわ)・七北田・市名坂・松森,仙台市鶴ケ谷・岩切・新田・田子・福室・中野などの地区を経て,仙台市蒲生(がもう)で太平洋に流入している。全長は約40km。別名を冠(かむり)川(冠屋川とも)・神降(かみふり)川・今市川などともいい,「安永風土記」の各村の記事には,それぞれ通過地の名をとって朴沢川・根白石川・岩切川・蒲生川などとある。「封内風土記」には福田町川とも記している。近世初期までは,仙台市中野付近から宮城郡湊浜へと流れ河口付近に湊薬師がまつられていた(仙台鹿の子・安永風土記)。現在の流路は,寛文10年仙台藩の土木指導者川村孫兵衛が水害防止のために,新たに川筋をつけかえてからのもの(安永風土記)。仙台市根白石地区から仙台市岩切地区にかけて,広い迫(はさま)を形成,さらに岩切から下流では広大な沖積平野を展開している。古来流域地帯は開発の努力が重ねられ,特に鎌倉期以降には東国武士が入部して川筋に勢力拡大の争いも起こった。根白石山村に居をすえた大河戸氏,岩切余目(あまるめ)地区に勢力を張った留守氏,仙台市苦竹(にがたけ)方面に進出した国分氏,河口付近の八幡荘の地元武士八幡氏,蒲生村の那須氏など多くの中世武士の存在が知られている。中でも中流の沖積平野の支配権をめぐる留守氏と国分氏の対立は深刻で,南北朝期から戦国期にかけて激しい葛藤を展開した。近世には内陸水路として重視された。川口の蒲生湊には藩内の年貢米が集積され,この川筋を利用して鶴巻の米蔵へ,さらに舟入堀を経て苦竹米蔵へと輸送され,明治の鉄道開通まで蒲生湊の繁栄は続いた。このように地域の発展をも開いたが,反面しばしば洪水を引き起こし,特に下流の沖積平野部は大きな被害を受けた。明治以後も明治22・29・31年,大正2・11年と大きな水害があり,昭和23年にはアイオン台風の襲来によって大きな打撃を受けた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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