100辞書・辞典一括検索

JLogos

20

南比内
【みなみひない】


旧国名:陸奥,出羽,出羽

(中世~近世)比内地方南部の郷名または総称。中世には陸奥国比内郡のうち。正安3年4月26日安藤きぬ女申状案に,「見なミのひないなかののちう人五郎四郎」とあるのが初見史料(新渡戸文書)。中野住人五郎四郎は八戸(はちのへ)是河(これかわ)の役人安藤きぬ女の長男安藤太郎を扶養すと記載。中野は犀(さい)川の中流域左岸部に位置する村。この時期の南比内を阿仁(あに)地方の汎称とみる説もあるが,多分の訂正を要する。文和3年浅利浄光譲状では,陸奥国比内郡南比内を惣領彦四郎に譲渡(新渡戸文書)。同状で「南比内・吉比内」と並記し6か条に書き上げたうち,「こんの五郎入道ひかえの分」から「にいた次郎かひかえの分」までの4か条分が南比内に属したかと推定される。公田が60%を占める地帯であり,冒頭の「やくしたうのれう田弐百刈」とは達子(たつこ)森の薬師堂料田であったと見られる。「にいた次郎」は仁井田(新田)の地を苗字とする土豪か。その後,中世史料上に「南比内」の記載を確認できない。近世秋田藩政下で,出羽国秋田郡に包摂された比内地方の南部の総称または行政領域として,「南比内」が再編成され,北比内(きたひない)に対応。所預(ところあずかり)の設置された十二所(じゆうにしよ)町が中心。「享保郡邑記」では,南比内として大阿仁(おおあに)・小阿仁の両地方まで含み,76か村を記載。しかし藩政初期,米代(よねしろ)川水系の山林管轄のために設けられた御材木郷5郷とは,南比内・北比内・大阿仁・小阿仁・檜山(ひやま)郷であり,御材木郷としての南比内は両阿仁を含まない。阿仁銅山の隆盛に伴い,18世紀中葉以降,両阿仁が南比内に含まれたと記す史料は見えない。その代わり北比内小猿部(おさるべ)水系の小坪沢(おちぼさわ)・白沢水沢の両村が南比内に包摂。「寛政村附帳」では,秋田郡南比内39か村(うち親郷は十二所町・扇田(おうぎだ)村・二井田(にいた)村)・当高8,881石余(うち蔵分3,359・給分5,522)と統計。幕末までの南比内の村々となる。小猿部水系の2か村以外はすべて大館(おおだて)盆地南部にあり,餌釣(えづり)・山館両村以東の十二所管内の村が米代川以北に属すだけで,残りはすべて米代川以南。御材木郷南比内と重複し,御材木郷関係の史料は多い(日本林制史資料など)。御材木郷南比内の大肝煎は中山氏が世襲。能代(のしろ)奉行(のち能代木山方)の管掌下に山林管轄に従事。廃藩置県後,明治11年北秋田郡の成立により,南比内は解消。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7023082