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鎌倉堤
【かまくらづつみ】


新庄市萩野地内,指首野(さすの)川上流小以良川源流部にある用水池。享保3年頃,江戸町人鎌倉屋長右衛門が新庄藩に願いをたて,新庄城下と萩野村の間の中山野の開発を企てたが,その水源として築堤されたもの。鎌倉堤に関する記録の初見は,享保3年の「萩野村小いら川堤御普請願上申ニ付泉田村江さハりニ罷成候哉と御尋被遊被下候ニ付乍恐奉申上候覚」(旧泉田村庄屋文書)で,文中の「小いら川堤」が,後の史料の文脈からすると,この鎌倉堤とみられる。鎌倉堤はこのように中山野の開田をめざして築かれたものであったが,一方で,本来下流部の泉田村に流れるべき小以良川の水が脇に引き上げられる恐れがでて,泉田村は大恐慌を来した。泉田村では藩庁から鎌倉堤の築堤について,同村田地への支障の有無を問われたのに対し,村の浮沈にかかわるものとして,強硬に反対。さらに享保7年重ねて藩に願いをたて「何とそ泉田村御本田江水不足仕候節ハ古来之通萩野村御本田用水之外泉田村江通リ申様ニとの御書付壱通被成下」さるようにと訴えた。これに対し,藩では同8年「其村本田水上ニ而鎌倉屋長右衛門新田致開発候得共旱魃之節ハ新田之水堰留古新田水不足無之様可致者也」との御墨付を与えた(ともに旧泉田村庄屋文書)。この後も泉田村の反対運動は継続され,同14年頃には萩野村への合併も論ぜられたほどであった(新庄古老覚書)。結局,この反対運動が功を奏し,また築堤の失敗から鎌倉屋の新田開発は取りやめとなり,堤も破れたままとなった。この堤防跡はいまも残っている。その後も,この地点に堤を築いて下流部の開発をはかる計画は数回企てられたが,いずれも十分な成功を収めることができなかった。その1つに幕末安政年間の谷地(現西村山郡河北町)の豪商丸屋長吉の企てがあった。この工事は,慶応初年に着手されたが,戊辰戦争によって中断した(増訂最上郡史・泉田川土地改良区史)。明治3・4年には,新庄藩による築堤工事が行われたが,この成否も明らかでない(泉田川土地改良区史・旧萩野村庄屋文書)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7024433