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庄内
【しょうない】


旧国名:出羽

(中世)戦国期から見える地域名。荘内とも書き,三荘(来迎寺年代記/県史15下)・庄中(本間美術館所蔵文書・読史堂史料所収色部文書/県史15上)ともいわれた。天正18年の太閤検地から江戸初期にかけての田川・櫛引(くしびき)・遊佐(ゆざ)の3郡,寛文年間以降の飽海(あくみ)・田川両郡に相当し,最上川流域の庄内平野を中心に,北は鳥海山,東は出羽山地,南は朝日山地に接する日本海沿岸地域の総称。庄内の称は赤川流域の庄内平野を占めた皇室領(長講堂領)大泉荘の荘内たることに由来するという(地名辞書)。この称に先立って,大乗院来迎寺(現飽海郡平田町砂越)に伝えられる「来迎寺年代記」(県史15下)天文元年条に,武藤氏庶流の砂越氏維が大宝寺城(現鶴岡市馬場町)に拠る武藤澄氏を攻略したことを「大宝寺内亡処ト成,三荘中動乱」と記し,当地域が「三荘」とも呼ばれたことがわかる。三荘とは大泉・櫛引・遊佐の3荘の意ともいうが(地名辞書),櫛引荘なる荘園は存在せず,検討を要する。また元亀元年と推定される7月8日の正福寺周悦書状(本間美術館所蔵文書/県史15上)では,越後の上杉謙信と本庄繁長の争いに端を発した,上杉方の土佐林禅棟と本庄氏方の武藤義氏との抗争に関連して,「庄中之儀,川南・川北中悉在陳被及其働候」と報じており,以後「庄内」の称も散見する。当地域を示す語として「庄内」が確実な文書史料に現れるのは天正年間で,早い例では天正10年と推定される11月23日の氏家守棟書状(湊文書/県史15上)に「白岩・庄内縁辺之筋目以,横馬相立候」などと見える。天正年間は武藤氏が庄内の領国化を積極的に推進した時期であり,鎌倉期から大泉荘の地頭を務めた武藤氏が庄内平野一帯を傘下に治める大名として勢力を拡張するにつれ,この地域全体が庄内と呼ばれるようになったものと推測される。武藤氏は領国支配体制が未熟なまま領域拡大に走ったため,内紛が絶えず,天正11年には前森蔵人らが武藤氏の支配に抗して蜂起し,武藤義氏は自害した。その後,上杉氏を背景とする本庄氏と最上氏とが当地域に覇権を競った。天正16年,十五里ケ原の戦において,上杉景勝の支援を受ける本庄繁長・武藤義勝(義氏養子)父子によって最上勢が敗北すると,庄内は事実上,上杉景勝の支配下に入った。天正18年,太閤検地が庄内に施行されると,これに抵抗する地侍が藤島城などに拠って一揆を起こしたが,景勝に制圧された。これに関与した疑いをかけられて,本庄繁長が失脚。庄内は上杉氏の直轄支配となり,直江兼続によって民政がすすめられた。東禅寺城(現酒田市亀ケ崎),大宝寺城(現鶴岡市馬場町),尾浦城(大浦城,現鶴岡市大字大山),小国城(現温海(あつみ)町大字小国)がその拠点であった。慶長3年には,上杉景勝の会津移封にともなって,各支城の城代が改めて任命され,東禅寺城には志駄修理亮,大宝寺城には木戸元斎,大浦城には松本伊賀守・下次右衛門,小国城には松本伊賀守が各々在番した。関ケ原の戦後の慶長6年,庄内は最上義光に加増された(鶴岡市史)。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7025602